綾戸智恵の笑顔の裏に乳がん、離婚の波乱アリ!息子の名前は?

綾戸智恵の笑顔の裏に乳がん、離婚の波乱アリ!息子の名前は?

綾戸智恵の笑顔の裏に乳がん、離婚の波乱アリ!単身渡米から帰国までのジャズな日々と苦難

綾戸智恵といえば、大阪弁を操るユーモアにあふれたジャズシンガー!その強烈なキャラクターは、一度見たらなかなか忘れられません。いつも笑顔で、大変なことも笑い飛ばしてしまうようなバイタリティを感じますよね。しかしその裏には、乳がんや、夫の暴力が原因の離婚などの苦難がありました。今でこそ底抜けの明るさを見せる綾戸智恵が、実母の介護に苦しみ、それを乗り越えてきたのも有名な話です。

綾戸智恵は1957年、大阪に生まれました。両親の影響で、幼い頃からジャズとハリウッド映画に親しんで育ちます。3歳でクラシック・ピアノを始め、教会でゴスペルを歌うようになり、中学に入るとナイト・クラブでピアノを弾き始めるなど、まさに音楽と共にある人生。高校卒業後、17歳になった綾戸智恵は、フランク・シナトラに憧れて単身渡米しました。

当時は、今のように、海外パッケージツアーで気軽に行けるというものではありませんから、金銭的にも精神的にも、相当な覚悟が必要だったことでしょう。アメリカ・ロサンゼルスに渡った綾戸智恵は、ライブハウスやプロテスタント教会で音楽浸りの生活を送りました。その後、ロサンゼルスからニューヨークへ移ります。この時期は、「暮らし自体がジャズであり、楽しかった」と綾戸智恵本人も振り返っています。

しかし、渡米中に、乳がんが発覚しました。幸い早期発見で手術を受けるも命に別状はなかった綾戸智恵は、アフリカ系アメリカ人のジャズミュージシャンとの結婚も果たします。綾戸智恵は、彼との間に1人の男の子を授かりました。ところがこの夫が激しい暴力を振るうようになり、死ぬ思いをしたという綾戸智恵は、わずか1年半で離婚し、息子を連れて1991年に帰国。

追い打ちをかけるように乳がんが再発し、2度目の摘出手術も受けました。綾戸智恵は、抗がん剤の副作用と闘いながら息子を育て、さまざまな職に就きながら、大阪のジャズクラブなどで地道に音楽活動を続けるという過酷な毎日を送ります。
帰国から7年後となる1998年、綾戸智恵は、鮮烈なデビューを果たします。

小柄な体格と、当時すでに40歳という、「デビューしたてのジャズシンガー」からイメージする姿とは全く異なる綾戸智恵の姿とパワフルな歌声は、多くの人に衝撃を与えました。1999年から行っている恒例の全国ツアーのチケットは、今でも発売と同時に完売になるほどの人気を誇っています。

綾戸智恵の息子の名前は?「なぜ僕はママの子なの?」に答える「Get Into My Life」

綾戸智恵の息子は、前夫アフリカ系アメリカ人とのハーフです。その容姿は、歌手のジェロに間違われることも多いとのことですが、きれいな顔立ちをしています。彼の名前はISA。

綾戸智恵は、息子に対する教育として、「私がおばあちゃんの世話をする姿を見せることだけが、息子への教育」と言います。また、自身の人生については、「息子のために」と思い、「息子がいたから」今のように笑顔で周りの人に元気を分けてあげられるようになったとも述べています。

実は、綾戸智恵の息子ISAも、小学生時代に苦難を経験していました。小学校入学と同時にいじめを受けるようになり、3カ月で不登校になったといいます。不登校になってから5年間、母である綾戸智恵自身が、息子に勉強を教えていました。しかし、登山家の野口健が行う屋久島での合宿に参加すると、息子が変化を見せたそうです。

「学校に行きたい、屋久島の学校で友達と勉強したい」と綾戸智恵に訴える息子に、綾戸智恵はすぐに屋久島に渡って役場に頼み込んだのだとか。必死に役場を説得した結果、いきいきと学校に通い始めるようになった息子は、無事に学校を卒業していきました。

綾戸智恵は、講演会で子供に言ってはいけない言葉の1つとして「早くしなさい!」をあげています。子供は、世界をゆっくり眺めながら、まわりからいろいろな情報を吸収して成長していきます。しかし、親からみると「遅い」と感じられてしまう……そうして親に成長を急かさせて、「当然身につけるべき、身についたであろう大切なものを落っことしたまま、成長していかざるを得ない」状態になると指摘するのです。綾戸智恵は、自身が経験した育児から、「子供のペースに合わせて成長を待つ」ことを学んだと述べています。

「息子のために」さまざまなことを行い、じっと待った綾戸智恵と息子ISAの母子の絆は深いものがあります。それが現れているのが「Get Into My Life」(ようこそわたしの人生へ)という、綾戸智恵が作った曲。息子に「なぜ僕はママの子なの?」と尋ねられたことへの答えとなる曲です。綾戸智恵が息子にどう答えているかは、ぜひ実際に曲をお聴きになって感じてみてください。

綾戸智恵と母!壮絶な介護生活で知らされた実父の存在とは?

綾戸智恵と母!壮絶な介護生活で見えた「生きること」の意味

綾戸智恵の母は福岡県の出身で、食糧庁やGHQに勤務していました。かなり風変わりな女性だったようで、綾戸智恵が中学生の時には、娘の誕生日に三菱重工の株をプレゼントしたといいます。「これを元手に家を建てるも、使い果たして消えるのも、あんたの好きにしなはれ」と言い、実際に、綾戸智恵は、高校生のときに株券を売り払って、単身渡米の元手としました。

渡米のときに母親が娘に贈った言葉も「レイプ犯には、レイプされなさい」「強盗犯にあったら、お金を出しなさい」という驚くべきもの。ただその真意は、どんなことがあっても命だけは守りなさいということだったのでしょう。
綾戸智恵の母が倒れたのは、母が79歳のとき。朝、突然「ウー」と言いながらよだれを流し始め、テーブルにばたりと倒れたのだそうです。脳梗塞でした。

そこから介護生活が始まりますが、綾戸智恵と認知症の母の壮絶な生活となっていきます。
倒れてから3カ月入院し、退院後は、リハビリのために病院に通ったことで、2年後には、綾戸智恵の母は、日常生活に支障のないところまで回復しました。しかし2007年、母が大腿骨を骨折すると、車椅子生活に逆戻りしてしまいます。

同時に認知症が悪化して、幻覚も出始めました。綾戸智恵は、介護生活に専念するために音楽活動を休止。「母の介護に明け暮れていました。毎朝8時前に起きて午後11時ぐらいに母を寝かせるまでずっと付き切り。その後、ようやく私のプライベートタイム。寝るのはいつも午前3時ごろでした」という生活を送っていたそうです。

しかも、排泄や、幻覚が原因の絶叫のために30分間隔で起こされるため、結局睡眠時間は3時間に満たない状態。綾戸智恵は、想像を絶する介護のつらさから、母と心中する衝動に駆られたこともあるといいます。「朦朧とした意識の中で、母親の顔に濡れタオルをかぶせようとしたんです。『母が死ねば、すべてが丸く収まるんやないか』」。

しかし、「残された息子が一生、殺人者の子として生きていくことになる」と我に返り、心中は免れました。実はこのとき、綾戸智恵の母自身も、娘の様子に「一緒に死のう」と言ったといいます。それを聞いた綾戸智恵は、母が自分でゆっくりと死ぬ準備をしているのだということにも気づいたそうです。

そんな中、はじめは母が訴える幻覚に戸惑っていたものの、母にとっては「真実」だと考え直し、訴えることを肯定するようにしたという変化が、綾戸智恵自身にありました。虫がたくさんいると言えば「虫、たくさんおったな。全部駆除したから、もう大丈夫やで」、変な人がいるとおびえれば「オッサンはもう帰ったで。変なヤツやったな」。

また、母におむつをはかせることについても「必要だから身に付けるもんで、決して恥ずかしいものやあらへん。寒いからコート着るのとおんなじ」と考えるようになったとのこと。自身の経験から、「ただ穿いてくれって言うんじゃなくて、楽しいことをしたいから穿いてちょうだいってお願いすれば案外スムーズかもしれませんね」とも語っています。

綾戸智恵が、自分と母の生活を振り返って述べるのは、「追い込まれれば、誰でも殺人の一歩手前まで行ってしまう」ということ。それを避けるために「しっかり人に助けてもらうことも必要」だと訴えています。

その後、本来の自分を取り戻さなければならない、その上で母と接したいという思いから音楽活動を再開させた綾戸智恵は、一時は精神安定剤の多量服用で入院するも、すぐに大阪府岸和田市で復帰コンサートを行い、名曲「テネシー・ワルツ」を始め全17曲を披露しました。

綾戸智恵へ母から贈られた言葉もあります。それは「ありがとう」の一言。「あんたが1年休みを取ってくれたからやっと言える。休む前のあんたのせわしいテンポに合わせていたから、何もしゃべられへんかった」という言葉に続いての「ありがとう」は、綾戸智恵の心に深く浸み渡りました。

綾戸智恵が介護生活の中で知らされた実父の存在とは?自身のルーツを求めて「父探し」へ

綾戸智恵が乗り越えてきた壮絶な介護生活の中では、もう1つ衝撃的な事件がありました。それが、「実父の存在」の告白です。その告白を88歳になる母から受けたことを、綾戸智恵は、2014年のコンサートの中で語りました。それは、それまで50年以上、父親だと思っていた男性とは別に、本当の父親がいるという告白でした。

その告白があったのは、綾戸智恵がスランプの時期。心から歌いたい歌が見つからない、歌手としての正念場だったそうです。告白の後、母の認知症は悪化し、母から直接、実父について聞くことができなくなりました。そこで、綾戸智恵は、自分の知らない部分を知るために、自ら実の父親を探す旅に出ます。

綾戸智恵の実の父親の名前は、鈴木政吉。旅回りの劇団の座長でしたが、綾戸智恵が2歳のときに50代で他界したとのことでした。実父の写真を初めて見た綾戸智恵は、「父さん、綺麗」と一言。実父も音楽に携わっていたことを知り、親子の因果を感じたようです。自分のルーツをたどる旅の中で、綾戸智恵は、自分が知らないことがどんどん分かっていくうちに、「なぜ歌うのか?」も見えてきたと言います。

歌うことは、実父が背中を押してくれたからじゃないか、と。そう感じたとき、歌いたいとか歌いたくないとかではなく「歌わなくちゃいけない!」と感じることができ、綾戸智恵から迷いが消えたのでした。

実父捜しという体験を通じて、世界観が変わった綾戸智恵。2014年のコンサートには「Picture in a Frame」というタイトルがついていますが、これは実父に捧げるためにつくられた歌です。母が自分に告白してくれた勇気、そこから探し当てた実の父親の温もりを感じた綾戸智恵自身の思いが込められた、愛にあふれた曲となっています。

綾戸智恵がN響とスペシャルセッション!会場はあの「まつもと市民芸術館」!

綾戸智恵は壮絶な半生を乗り越えて今、笑顔とユーモアで人々に音楽を届けています。その生き様は、介護生活に苦しむ人々や、育児に悩む人々のみならず、日常の小さなことにつまずいて立ち止まっている人々をもさまざまな形で勇気づけてきました。そんな絶大な人気を誇る日本の女性ジャズシンガー・綾戸智恵は今年、2016年10月5日にN響とのセッションに挑みます。

信濃毎日新聞社主催で行われる「綾戸智恵+N響メンバーによるスペシャルセッション」。会場は、松本市深志にある「まつもと市民芸術館」です。

まつもと市民芸術館は、日本を代表する建築家である伊東豊雄の設計によって建てられました。伊東豊雄は、建築のノーベル賞といわれる「プリツカー賞」の受賞者で、世界的建築家としてその名を知られています。馬蹄形の建物の外壁に大小さまざまなガラスがはめ込まれた光の演出で屋内に不思議な雰囲気を与え、そのメイン部分となるホールは、ステージの活用をしっかり見据えたつくりで多様な演出が可能となっています。

その価値は、音響家が選ぶ優良ホール100選にも入るほどで、日本最大級の音楽祭である「セイジ・オザワ 松本フェスティバル(旧称サイトウ・キネン・フェスティバル松本)」の主要会場であることでも有名です。
また、綾戸智恵とセッションを行うN響の正式名称は「NHK交響楽団」で、母体は1926年に結成されたプロ・オーケストラ。日本を代表するオーケストラであり、カラヤンなどの世界一流の指揮者のもとで演奏を行う他、話題のソリストたちとの共演でも国際的に高い評価を得ています。

2016年10月5日のスペシャルセッションでは、そうした素晴らしい会場で、綾戸智恵と、N響のバイオリン、チェロ奏者ら5人による、ジャズとクラシックのコラボレーションが実現されます。楽譜にある指示を中心に進行するクラシックと、アドリブを得意とするジャズの融合。音響家たちも高く評価するこのまつもと市民芸術館で、綾戸智恵による新しいサウンドが生まれそうですね。プロとプロによるジャンルを越えたセッションには、否が応でも期待が膨らみます!

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