伊達政宗「関ヶ原演義」「戦国BASARA」でも根強い人気!名言の意味は?

伊達政宗「関ヶ原演義」「戦国BASARA」でも根強い人気!名言の意味は?出典:http://matome.naver.jp

伊達政宗「関ヶ原演義」「戦国BASARA」でも根強い人気!名言の意味は?

伊達政宗はゲーム「関ヶ原演義」「戦国BASARA」でも根強い人気!

伊達政宗は、出羽国と陸奥国を治めた、奥州の雄といわれる、人気の高い戦国武将です。歴史上に実在する人物としてはもちろんのこと、ゲーム「関ヶ原演義」や「戦国BASARA」に登場するキャラクターとしても根強い人気を誇っています。ゲーム「関ヶ原演義」は、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍によって行われた天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いをモチーフにしたRPG(ロールプレイングゲーム)。

伊達政宗は、関ヶ原の戦いの当時、東軍に加担して、事の発端となった上杉征伐を行い、旧領奪還を試みました。一方、ゲーム「戦国BASARA」とは、プレイヤーが、実在した戦国武将として戦うことができるアクションゲーム。伊達政宗は、シリーズを通して人気の主人公として描かれています。

実際、「戦国BASARA」シリーズに登場する武将や地方領主を対象とした人気投票でも、2位の石田三成を突き放して伊達政宗が、1位を独占。「遅れてきた英雄」「奥州の独眼竜」などさまざまな形容詞を持つ伊達政宗ですが、キャラ設定となっているクールさや、それに相反する戦国の異端児たるやんちゃな感じ、織田信長や武田信玄とも対等な口を利く「俺様キャラ」が、ゲームファンたちの心をとらえて離さないようです。

伊達政宗が残した名言の意味を3つ解説します!

伊達政宗の名言は、「伊達政宗五常訓」や「政宗公御名語集」の中に見ることができます。例えば「仁義礼智」に関しては、「仁も過ぎれば弱くなるし、義が過ぎれば固くなる、また礼が過ぎればへつらうことになりかねないし、智が過ぎると嘘をつくことにもなる」といった内容の名言を残しました。つまりは、重んじるが過ぎてはいけないという意味です。

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この他にも、「大事の原因になることがあるので、小事を軽んじてはいけない」といった主旨の言葉もあります。こうした名言は、組織のトップとして力量を発揮していた伊達政宗の思索の深さがうかがえるようで興味深いものです。また、「ご馳走する」ことについても名言を残している伊達政宗。「馳走するということは、主人自らが調理した旬の食材をさりげなく供すること」という意味の名言を述べたそうで、料理が趣味といわれていた伊達政宗の人柄が感じられる言葉となっています。

伊達政宗はオッドアイが眼帯の理由!?生涯年表を分かりやすく紹介!

伊達政宗はオッドアイが眼帯の理由だった?今なお深まる独眼竜の謎とは

伊達政宗といえば、片目を眼帯などで覆った姿が有名です。これにより、独眼竜とも呼ばれるわけですが、史実には、目を覆っていたという記録はないのだとか。しかし、肖像画を見ても、右目に瞳は描かれておらず、白濁しているようにも受け取れます。それは、幼少期に疱瘡(ほうそう)を患い、失明したことが原因だというのがもっぱらの説です。

しかし最近では、オッドアイが理由で眼帯をしていたのでは?などという説もあります。オッドアイとは、虹彩異色症と呼ばれる症状のことで、どちらか片方の瞳の虹彩の一部が変色した状態になることです。日本で馴染みがある有名人では、女優の奥菜恵が、先天性のオッドアイだといわれています。

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伊達政宗にオッドアイ説が唱えられたのには訳がありました。伊達政宗は、疱瘡で失明した後に眼球を失ったと伝わっているにもかかわらず、遺骨を調べたところ、眼球を失った痕跡が確認できなかったそうです。このことから、伊達政宗は、そもそも失明していなかった可能性もあるなど、色々な説が浮上してきています。

伊達政宗の70年にわたる生涯年表解説!「伊達者」と呼ばれるようになった理由とは?

伊達政宗の生涯年表を分かりやすく紹介しましょう。元服名・伊達藤次郎正宗は、1567年生まれで、幼名は梵天丸。通説によると、5才で疱瘡にかかり右目を失明したといわれています。9才のときには、大事な嫡男であることから、片倉小十郎が伊達政宗の傅役(もりやく)に就きました。

13才で結婚した伊達政宗は、15才で初陣、18才で家督を相続すると、20才の時に、摺上原(すりあげはら)の戦で勝利し、奥州を平定。24才のときに、自身を毒殺しようと企てた母・義姫に従っていた弟・小次郎を成敗し、その後、小田原城攻めを行っていた豊臣秀吉の元に参内し、臣下になりました。1562年には、豊臣秀吉の命で朝鮮出兵に参戦しますが、この時の戦装束が派手なものであったことから「伊達者」という言葉が使われるようになったと伝わっています。

34才になった伊達政宗は、関ヶ原の戦いを迎え、豊臣方の敵である徳川方である東軍に加勢し勝利すると、35才で青葉城を築城。仙台藩初代藩主に就任し、1613年には支倉常長をイスパニア(スペイン)に派遣しました。48才で大阪冬の陣に馳せ参じた伊達政宗は、続いて、49才で大阪夏の陣に参戦し勝利に貢献し、1636年、70才でこの世を去りました。

伊達政宗2017年は生誕450周年に!「政宗ワールド」プロジェクト展開中

伊達政宗は、ゲーム「関ヶ原演義」「戦国BASARA」でも根強い人気を誇る戦国武将です。2017年には、生誕450周年を迎えるため、「政宗ワールド」と銘打って、多くのイベントが企画されています。これを機に、かつて奥州と呼ばれた地域の観光振興に役立てたり、歴史的な遺産の保存・再生を目指したりしたいという狙いのほか、50年後の生誕500周年に向けた布石としても、すでに盛り上がりを見せつつある今。

伊達政宗は、2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」にも登場し、どこかひょうひょうとした人物として描かれ注目を集めるなど、ますます勢いが増しています。2016年は、「真田丸」人気にあやかって、真田幸村に関連した映画や舞台、小説はもちろんのこと、イベントなども大きな盛り上がりを見せました。そのため、「政宗ワールド」にも、成功に向けて高い期待が寄せられています。

伊達政宗といえば、「伊達者」の言葉があるように、派手好きな傾奇者(かぶきもの)というイメージが強い人物です。ほかにも、愛煙家であり、グルメでもあったなど、エピソードに事欠きません。歴史に「もし」はありませんが、伊達政宗があと10年早く生まれていれば天下取りに関わったともいわれており、その実力が相当なものであったことは、仙台を平定した史実も証明しています。

支倉常長のイスパニア派遣は、表向きは外交でしたが、実は、イスパニアの支援を受けての討幕を考えていたとか。さらに、青葉城を拠点にした幕府軍との戦いも想定し、作戦立案もしていたともいいますから、死ぬ間際まで天下取りを諦めていなかったのかもしれません。後世に生きる人々が愛してやまない戦国武将の1人、伊達政宗。「伊達政宗五常訓」や「政宗公御名語集」に残されている名言や、「政宗ワールド」の広がりを機に、その人気の秘密を探ってみるのもいいのではないでしょうか。

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