ジャイアント馬場は何もかもがケタ外れだった!その伝説を追う

ジャイアント馬場は何もかもがケタ外れだった!その伝説を追う出典:https://www.change.org

ジャイアント馬場は何もかもがケタ外れだった!伝説と名言集!

ジャイアント馬場は日本のプロレスの黄金期を担った2m9cmの巨人プロレスラー

ジャイアント馬場が、プロレスのリング上で実際に戦う姿を見た記憶があるという人は、もうすでにほとんどが50歳以上の世代でしょう。よほどのプロレス好きでない限り、それより若い人たちは、ビートたけしのホラ話や、関根勉のモノマネなど、カリカチュアされたジャイアント馬場しか知らないはずです。

ジャイアント馬場は、1938年生まれで、1999年に、61歳の若さで亡くなっています。日本のプロレス界のみならず、世界のプロレス界においても、その圧倒的強さだけでなく、優れたプロモーターとして今に名を残す、209cm、まさに伝説の巨人プロレスラーです。「クルマのサンルーフから顔を出して運転している」とか「巨人の投手時代、球を投げようとしてキャッチャーの頭を叩いた」など、ケタ違いな体の大きさが話題になることが多く、愚鈍なイメージもあったジャイアント馬場。

しかし実は、プロレスラーとしての身体能力の高さやずば抜けた反射神経は、デビュー当時、本場アメリカでも高く評価されていました。実際に、多くのタイトルを獲得しています。

ジャイアント馬場の素顔は葉巻をくゆらせ読書する規格外の紳士だった?!

日本には、古くから「大男、総身に知恵が回りかね」といったことわざがありますが、ジャイアント馬場は、その真逆といえる存在でした。無類の読者家で、年間200冊以上の本を読み、中でも歴史小説が大好きだったことで知られています。好きな葉巻をくゆらせ、静かに本を読む姿は、知的な紳士そのものだったそうです。

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「楽しく明るいプロレス」と言い続けていたジャイアント馬場。自身について、「成り行きと言うと無責任なイメージを持つけど、これほど強いものはない。自然の流れに逆らわずに正直に生きるってこと」と語ったことからも、いかにも前向きで泰然自若とした人柄が表れています。

また、「水戸黄門」以外は、映画やテレビはほとんど見ていなかったため、空港で名優・高倉健に挨拶されても、「水戸黄門」では見かけない俳優だと軽くあしらったとか。ジャイアント馬場は、全てにおいて規格外の人物だったようです。

ジャイアント馬場は野球選手からプロレスラーへ!全盛期の強さとは

ジャイアント馬場は高2で読売ジャイアンツにピッチャーでスカウトされた!

ジャイアント馬場が、最初は読売ジャイアンツのプロ野球選手だったことを知る人も少なくなってきました。新潟県三条市生まれで、小学校3年生の頃から急に大きくなってきたジャイアント馬場こと馬場正平少年は、野球を始めます。地元の三条高校では、身長190cmのエースとして活躍しますが、甲子園出場は叶いませんでした。

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しかし、スカウトを受け、2年で高校を中退すると、1955年、読売ジャイアンツに投手として入団します。しかし当時は、野球選手としても規格外の大きさである上、脳腫瘍による失明の危機などに見舞われる悲運も重なり、これといった成績を残せないまま、1958年、ジャイアンツを解雇されてしまいました。

その後も体力トレーニングを欠かさなかったジャイアント馬場は、当時人気絶頂だったプロレスの力道山を訪ねます。その場で、ヒンズースクワット100回を命じられたジャイアント馬場は、難なくこなしたことから、入門が即決まったそうです。

ジャイアント馬場がアメリカ修行で学んだ華麗なアメリカンスタイルのプロレス

力道山に認められ、さっそくリングデビューしたジャイアント馬場。力道山は、ジャイアント馬場の底知れぬプロレスの才能を見抜き、デビュー翌年にはアメリカでの武者修行を命じます。その巡業先であったニューヨークでつけられたリングネームが、ババ・ザ・ジャイアント。

これが、ジャイアント馬場という名前の由来となりました。1963年に凱旋帰国したジャイアント馬場は、師匠である力道山とタッグを組むだけでなく、キラー・コワルスキーや、パット・オコーナーなど超一流のレスラーと戦い、スケールの大きいアメリカンスタイルのプロレスでファンを魅了します。

ジャイアント馬場は、1963年に力道山が暴漢に刺されて不慮の死を遂げた後も、日本プロレスを支え続けました。その後は、力道山の愛弟子アントニオ猪木との確執などもあり、日本プロレスを去りますが、1972年に全日本プロレスを立ち上げ、後輩プロレスラーを育成しながら、1980年代に至る全日本プロレスの黄金時代を築きます。その前期は天才プロレスラーとして、その後期は敏腕プロモーターとして……ジャイアント馬場は、プロレス界で規格外のレジェンドとなりました。

ジャイアント馬場とアントニオ猪木の確執は日本プロレス界最大のタブー

日本のプロレスを語る上で、力道山の存在と、その愛弟子であるジャイアント馬場とアントニオ猪木の確執について避けて通ることはできません。ジャイアント馬場が、曲がりなりにも元読売ジャイアンツの注目選手で、力道山が見込んでスカウトしたスター選手ならば、アントニオ猪木は、力道山の付き人からスタートした苦労人でした。

ある意味、力道山から壮大なエンターティメントとしてのプロレスを引き継いだのがジャイアント馬場で、底なしの欲望と裏切りが蠢く情念のプロレスを自ら築き上げたのが、アントニオ猪木と言えるでしょう。また、お互いのプロレスのスタイルも正反対です。

ジャイアント馬場のプロレスが、鍛え抜かれた肉体から繰り出される華麗な技の応酬であるアメリカンプロレスならば、アントニオ猪木は、あくまでも技より強さにこだわるストロングスタイル。この2つのプロレススタイルがせめぎ合い、世紀末のフルコンタクトによる異種格闘技ブームや、近年の多彩でエンターティメント性豊かなプロレスを生み出す土壌となりました。

2人の確執を、2人以外のプロレスラーが語ることを長くタブーとしてきた日本プロレス界。しかし、ジャイアント馬場とアントニオ猪木に次ぐスター選手だった、現・新日本プロレス坂口征二相談役が、つい最近のインタビューで、このタブーに切り込んでいます。

曰く、「2人の確執は、日本プロレス幹部の不正経理をいっしょに糺そうとしてこじれ、結局、猪木だけが日本プロレスを追放されたことと一般には言われている」としながらも、自らの見解は、「アントニオ猪木が、自分とジャイアント馬場、本当に強いのはどちらかということにずっとこだわり続けていたことが原因ではないか」。まさにプロレスにとって永遠の命題、「見世物なのかガチなのか」が、2人の確執の核心であったということでしょう。

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