フジコ・ヘミング名言集!リスト:ラ・カンパネラにまさかの下手評価?

フジコ・ヘミング名言集!リスト:ラ・カンパネラにまさかの下手評価?

フジコ・ヘミング名言集!辛口だけど、深すぎる!

フジコ・ヘミングは、1960代後半にブレイクした奇跡のピアニスト。順風満帆とはいえない、山あり谷ありの人生を送ってきたことから、その口から出る言葉は、辛口ながら深く心に刺さる名言が多いことでも知られています。そんなフジコ・ヘミングの名言の一部をご紹介します。

例えば、「人生って短すぎます。少し賢くなったと思ったら、もう年取っているんだから」という名言は、晩年でブレイクを迎えたフジコ・ヘミングならではとえいます。挫折を味わった人間の深みが感じられる名言としては、「人生が、予定通り順調にうまくいくことなんて絶対にないの。ありえないことよ。そうならないように頑張るでしょ。だから人生がおもしろくなるんじゃない」も有名です。また、「人間は場所を得て初めて、本当の姿を現す生きものなのよ」という言葉には、ピアノを前にしたフジコ・ヘミング自身を見るようです。

フジコ・ヘミングの弾くリスト:ラ・カンパネラにまさかの下手評価?

フジコ・ヘミングの名を一躍有名にしたのは、リストの難曲「ラ・カンパネラ(鐘)」の演奏です。しかし、その演奏に対しての評価は、実は賛否両論があります。クラシックの世界では、まず譜面通りに演奏できることが第一条件。その上で、作曲家の意図をくみ取り、自分の表現ができるのが一流の演奏家といわれています。

しかし、フジコ・ヘミングの演奏は、テンポ等もかなり独特で、時にはミスタッチもあることから、クラシック通の間からは「下手」という評価を下されることも。反対に「味がある」「フジコ・ヘミング独特の世界が味わえる」と評価する根強い声もあるのです。フジコ・ヘミングは自身のラ・カンパネラの演奏に対して、「ぶっ壊れそうな鐘があったっていいじゃない、機械じゃないんだから」とお得意の辛口コメントで答えています。

フジコ・ヘミングの猫好きが異常!?版画作品展の評判は?

フジコ・ヘミングの猫好きが異常!?30匹以上と同居!?

フジコ・ヘミングは、人間に対してはなかなかクールに接するようですが、実は大変な愛猫家です。「あなたにとってピアノとは?」と質問されたフジコ・ヘミングは、「猫たちを食わせていくための道具ね」と答えたほどですから、その猫好きには驚かされます。一時は30匹も飼っていたこともあるフジコ・ヘミング。犬も好きで、猫と一緒に飼っているそうですが、散歩が大変なので、猫の割合が多くなるそうです。

「私の人生にとって一番大切なことは、小さな命に対する愛情や行為を最優先させること。自分より困っている誰かを助けたり、野良一匹でも救うために人は命を授かっているのよ」ともコメントしているフジコ・ヘミングは、動物愛護家としての一面をのぞかせています。

フジコ・ヘミングの版画作品展の評判は?

フジコ・ヘミングの活躍は、実はピアノだけではありません。趣味として絵画を描くことをあげているのですが、その腕前もなかなかのもので、個展を開くこともあります。フジコ・ヘミングが描き上げたイラストをリトグラフ(版画)にして、作品展で同時に販売することもあるそうです。

版画作品展の評判はなかなか良く、各地で絶え間なく催されています。大好きな猫やピアノ、天使等をモチーフに、淡い色調で、ファンタジックで可愛らしい世界が描かれているフジコ・ヘミングの絵画作品。フジコ・ヘミングのピアノに感銘を受けたファンも会場に足を運んでいるのではないでしょうか。

フジコ・ヘミングの不屈の精神がすごすぎる!

フジコ・ヘミングは遅咲きのピアニスト。現在は日本を離れ、フランスのパリで暮らしています。そんなフジコ・ヘミングも御年83歳。年齢を重ねてから居を移すことは、ためらう人のほうが多そうですが、フジコ・ヘミングは違いました。なんでも、20代の頃から、芸術家の集う街であるパリに対する憧れがあったのだとか。人生も後半にさしかかったところで成功をつかみ、収入が増えたことで、フジコ・ヘミングは、若い頃から抱いていた夢を叶えることができたわけです。

そもそも、フジコ・ヘミングは、その名前や容姿からうかがえるようにハーフで、そのルーツの半分はヨーロッパです。ロシア系スウェーデン人の建築家の父親と、日本人のピアニストの母親の間に、1932年にドイツのベルリンで誕生しました。5歳の時に日本に移住しますが、日本の暮らしになじめなかったフジコ・ヘミングの父は帰国。母と弟と暮らすことになります。

ピアニストの母の指導の下、ピアノをはじめたフジコ・ヘミングは、めきめきと実力をつけ、小学校の頃にはラジオ出演をはたし、天才少女と話題になったことも。太平洋戦争がはじまると、ピアノのキャリアは一時中断しますが、終戦後には東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)に進学、数々のコンクールで入賞を果たします。

卒業後は、ピアニストとして活躍しながら、1961年には、以前から望んでいた海外留学の夢を叶えたフジコ・ヘミング。国立ベルリン音楽大学へ留学し、卒業後はそのまま現地に残り、ピアニストとしての活動を開始。しかし、収入は、わずかな仕送りと奨学金のみ。当時のフジコ・ヘミングの生活は、大変厳しいものだったそうです。

それでもフジコ・ヘミングは、貧しい生活の中から大きなチャンスをつかみます。作曲家で指揮者のブルーノ・マデルナにその才能を見出され、ソリストとしての契約を結ぶのです。しかし、やっとつかんだチャンスを、目前で逃してしまったフジコ・ヘミング。なんとリサイタル直前に体調を崩し、聴力を失ってしまったのです。極貧ゆえに真冬に暖房もつけられないような厳しい状況にあったことも体調を崩した一因だったとか。

どん底の状況の中、フジコ・ヘミングは、ストックホルムに移り住み、耳の治療をしながら、ピアノ教師の職を得て、細々と演奏活動を続けていきました。聴力を失ってなお、家族の暮らす日本に戻ることもなく、たった1人でくらしていくことは、想像を絶する苦しいものだったはずです。それでも、ピアノから離れずに諦めなかったフジコ・ヘミングの不屈の精神には頭がさがります。

母の死を機に、フジコ・ヘミングは日本へ戻ります。それは、成功した自分の姿を母に見せることができなかったという思いを抱えた失意の帰国でした。そして、皮肉なことに、その帰国が、フジコ・ヘミングがブレイクするきっかけとなるのです。母親の残した家でピアノ教師をし、小さな演奏会にも出演する日々。その演奏が口コミで評判となり、NHKの取材班が、フジコ・ヘミングの半生を交えたドキュメンタリーを作成することになります。

1999年に放送されたドキュメンタリー「フジコ あるピアニストの軌跡」は、放映直後から話題になり、『奇蹟のカンパネラ』でCDデビュー。CDは発売3カ月で30万枚を売り上げる大ヒットとなり、フジコ・ヘミングは、名実ともにブレイクしたのでした。その時、すでにフジコ・ヘミングは67歳。70代を目前にして成功をつかんだのですから、世の中何があるか分かりません。
フジコ・ヘミングの人生は苦難に満ちたものでしたが、自らを信じて、くじけずに生きてきたからこそ、人生の後半で成功することができたのでしょう。

フジコ・ヘミング自身も『人生は諦めたら終わり。私は苦しみながらも希望を捨てませんでした。人生をくよくよして渡らないことです』と語っています。フジコ・ヘミングの人生を知ると、その名言もさらに深みがますような気がします。演奏活動だけでなく、名言も生み続けてほしいものです。

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