石川啄木のローマ字日記に子孫もドン引き!作品と素顔がギャップあり過ぎ!

石川啄木のローマ字日記に子孫もドン引き!作品と素顔がギャップあり過ぎ!

石川啄木の作品とローマ字日記とのギャップあり過ぎに子孫もドン引き!

石川啄木の「ふるさとの 訛なつかし 停車場の ひとごみの中に そを聴きにゆく」。当時、東京に住んでいた石川啄木が、故郷である盛岡の方言がとてつもなく恋しくなり、「停車場(上野駅)ならば、同郷の人がいて、方言が聴けるかもしれない」との望郷の思いを情緒豊かに詠った有名な作品です。

26歳の若さで夭折した石川啄木の一般的なイメージは、「貧しい人生を送った文学青年」と称えられているようですが、実は、自らの女性遍歴と性体験を赤裸々に書いた「ローマ字日記」なるものを遺していたことをご存じでしょうか。そのエロさといったら、どこぞのスポーツ紙に掲載されている官能小説も真っ青!石川啄木のいわゆる有名作品とのギャップあり過ぎの問題作です。

石川啄木本人は、「ローマ字で書いているから他人には読まれないだろう」と高を括って、「自分が死んだら燃やしてくれ」と妻に頼んでいたといいます。それが、まさか白日の下に堂々と晒されてしまうとは本人も思っていなかったことでしょう。石川啄木もそうでしたが、石川家の家系は代々短命です。それでも直系の子孫の方々はいらっしゃるようですから、この「ローマ字日記」の存在にはさぞかし驚かれていることでしょう。

石川啄木の素顔は「真面目」ではなく「超浪費家」だった?

石川啄木(石川一)は、1886(明治19)年に、盛岡市の曹洞宗住職であった父と母(カツ)の間に生まれました。4人姉弟唯一の男の子だったので、母カツは、石川啄木を溺愛したようです。19歳で結婚した妻の節子や、親友だった言語学者の金田一京助とは、中学時代(今の高校)に知り合いますが、石川啄木は、「明星」の与謝野晶子に心酔し、中学を中退。短歌の会を結成したり、上京して歌壇で注目を集めたりもしますが、結核を発症して故郷に戻ります。

それでも諦めきれずに1904年に再び上京した石川啄木。翌年に妻節子と結婚するも、妻子を盛岡に残して、第一詩集「あこがれ」を、自費で出版します。一見、文学一筋の真面目な青年のように思えますが、石川啄木は、お金に関して非常にルーズで、親友だった金田一京助をはじめ、借金をした友人は数知れず。

真面目どころか超浪費家で、その金額は、今のお金で1000万円以上になったといいます。そのほとんどを女遊びに使っていたといいますから、「ローマ字日記」に書かれている内容は、石川啄木の現実そのものだったようです。

石川啄木代表作「一握の砂」有名短歌は?「初恋」の意味と解釈

石川啄木の代表作「一握の砂」冒頭の有名短歌の解釈は?

石川啄木の代表作といえば、24歳の時に出した「一握の砂」で、中には551首の歌が収められています。その1つが、「東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」。これは「一握の砂」の冒頭に書かれている短歌で、石川啄木の代表的作品として、教科書や参考書などでも紹介されています。石川啄木は、故郷だった岩手を離れて上京しますが、一時は、原稿の依頼を受けて、北海道の函館に居を構えていました。

その縁で、函館市大森浜には、石川啄木の銅像が建てられています。この歌は、その大森浜の情景を詠ったものだという解釈もありますが、肝心の大森浜に磯はありません。また、そもそも磯と白砂が結びつくとも考え難いという指摘もあります。そのため、現在では、この短歌は、浜の情景ではなく、石川啄木自身の心の様を詠ったのだろうと解釈されています。

石川啄木が「初恋」を詠った意味は?

石川啄木の有名な作品には、「砂山の 砂に腹這い 初恋の いたみを遠く 思ひ出づる日」もあります。この「初恋」という作品も、同じく「一握の砂」に収められている短歌です。26歳で夭折した石川啄木の人生には、「貧しさと結核」が付いて回りました。夢を描いて上京したものの、故郷に戻らねばならなかったのは結核を発症したからです。結核は、今でこそ深刻な病ではありませんが、当時は、発症を繰り返す不治の病でした。

そのため、石川啄木の心には、常に、「いつ死ぬかもしれない」との恐怖がありました。そんな石川啄木が「初恋」を詠った意味とは、初恋こそが自分の青春、輝ける時期だったからでしょう。砂に腹這い、蟹とたわむれながら、自らの人生を、掌からこぼれ落ちる一握の砂の儚さに例えたのかもしれませんね。また、石川啄木の「初恋」は、昭和の初めに越谷達之助(こしたにたつのすけ)がメロディーを付け、美しい歌曲「初恋」として今も歌い継がれています。

石川啄木は愛される「人たらし」?どうして彼は許されたのか!

石川啄木が生まれた土地、盛岡駅正面の駅舎には、盛岡が生んだ偉大な歌人・石川啄木自筆の文字を集めて制作された「もりおか 啄木」というプレートが掛けられています。もちろん、盛岡の人のみならず、日本を代表する歌人の1人として、石川啄木は有名です。

しかしながら、彼の私生活はといえば、友人たちに借金をしまくり、妻子を差し置いて女に走り、挙句の果てに、懇意になった女性たちにも借金をしまくる、人としての道を外れまくったものでした。親友だった金田一京助は、石川啄木にお金を貸すために、宝物だった高価な文学書を売ってまで用立てたといいます。なぜに人は、石川啄木にここまで尽くすのでしょう?石川啄木の人生は26年間という短いものでした。

しかしその間に、「一握の砂」「悲しき玩具」を世に送り出し、結核を患い、死と常に背中合わせだった石川啄木ならではの世界観は、今でも高い評価を受けています。そんな石川啄木には、何とかしてやりたいという「危うさ」があったのではないでしょうか。そして何より「才能」がありました。一番の被害者だった金田一京助や、石川啄木の周囲の人間たちは、この「危うさ」と「才能」に心惑わされてしまったように思えてなりません。

「友がみな われよりえらく 見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ」という短歌を見ると、自らを天才と称する自信家だった石川啄木も、己の本音を、一番の理解者だった妻には吐露していたようです。自分だけに「弱さ」を見せてくれる、そんな様子がまた、周囲の人の心をつかんで離さない結果につながっていたとも考えられます。その意味では、石川啄木は、天性の愛される「人たらし」だったといえるのでしょう。

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