ジョン万次郎が英語のスペシャリストになったワケとは?曾孫・中濱武彦が曾祖父の生涯を伝える

ジョン万次郎ってどんな人?漁師の息子が英語のスペシャリストになったワケ

ジョン万次郎ってどんな人?遭難からアメリカでの教育、帰国後の活躍まで

ジョン万次郎は、幕末日本における重要人物。有名な歴史的事件に深い関わりを持っています。もともと漁師の息子だったジョン万次郎は、14歳のときに、初めての漁で大しけに遭い、伊豆諸島まで流されてしまいます。

たどり着いたのは無人島。遭難から約150日後、ジョン万次郎を助けたのは、近くを通りかかったアメリカの捕鯨船でした。
ようやく故郷に帰れると思ったジョン万次郎ですが、当時の日本は鎖国中で、たとえ日本人の遭難者を乗せていたとしても、アメリカ国籍の船は近づけません。そこで、アメリカ本土へ向かい、当時の日本人としては非常に珍しく、アメリカで教育を受け、西洋文明を吸収していきました。

そのままアメリカで大学を卒業したジョン万次郎は、22歳のときに帰国。転機が訪れたのは、1853年。黒船来航時に、アメリカをよく知るジョン万次郎に白羽の矢が立ちました。ジョン万次郎は、開港の妥当性を幕府に説明する一方で、アメリカからの要求にあった試験的通商については、アメリカで聞いたことがないと述べます。

この情報をもとに、幕府側はペリー提督に対し港を開くことを宣言。同時に、通商については拒否するという毅然とした態度を見せることができました。ジョン万次郎が通訳を担い、1854年3月3日に日米和親条約が締結。1860年には、日米修好通商条約批准のため、勝海舟、福沢諭吉らとともに咸臨丸に乗船します。

日本の開国、明治の文明開化に関わり、1869年には、現在の東京大学である開成学校の英語教授に就任したジョン万次郎。その教授法の一部は、今も受け継がれているそうです。

ジョン万次郎が英語のスペシャリストになったワケ!日本人に適した発音を紹介

ジョン万次郎は、渡米するまで、きちんとした読み書きの教育を受けていませんでした。そんなジョン万次郎がアメリカで最初に通った学校は、全学年が一緒に勉強する小さな学校で、小学生くらいの子供たちと一緒にアルファベットを勉強するところから始めました。

当時16歳だったジョン万次郎は、取り憑かれたように勉強を続けたといいます。ジョン万次郎は、英語の音を学ぶ際に、耳で聞き取った発音をそのまま発話するという方法をとっていました。たとえば「cool」。現代の私たちならば「クール」と発音しますが、ジョン万次郎はこれを「コール」と発音しました。

他にも、「water」は「ワラ」、「McDonald」は「メクダノ」、「Are you coming?」は「アーユーカメン?」。最も知られているのは、「What time is it now?」の「ホッタイモイジルナ」でしょうか。英語の音に慣れない日本人にとっても発音しやすいとして、これを参考にする英会話教室もあるそうです。

ジョン万次郎記念館の所蔵品や見どころ!子孫は?

ジョン万次郎記念館の所蔵品や見どころ!土佐清水市にも資料館

ジョン万次郎は、実はアメリカでも有名です。マサチューセッツ州フェアヘブンという小さな漁港には、「ホイットフィールド=万次郎友好記念館」もあります。同館は、ジョン万次郎を助けたホイットフィールド船長の自宅を修復し、2009年5月7日に開館されました。

1階の暖炉付近には、ホイットフィールド船長とジョン万次郎の写真や、ジョン万次郎を救助する様子を描いた絵が飾られ、3階のジョン万次郎の部屋を見ることもできます。その部屋からは海を見ることができるのも、ジョン万次郎がホームシックに苦しまないようにという、ホイットフィールド船長の気配りでした。

日本にあるのは、土佐清水市の「ジョン万次郎資料館」です。館内には、捕鯨船の乗組員だったジョン万次郎が持っていた技術が体験できる、ロープワーク体験コーナーが設置されています。その他には、遭難から帰国までをジオラマで見られるジオラマコーナーや、ジョン万次郎の生涯を映像で紹介してくれるシアターコーナーなども。2階には、日米修好通商条約に関わる資料や模型があり、咸臨丸がどんな船だったのかを見ることもできます。

ジョン万次郎の子孫は?曾孫・中濱武彦が曾祖父の生涯を伝える

ジョン万次郎が日本で漁師をしていた頃は、ただ「万次郎」とだけ呼ばれていました。「ジョン」がついたのは、アメリカに渡ってから。しかも、「ジョン・マン」という呼び名だったようです。帰国し、浦賀の黒船来航を機に幕府に取り立てられてからは、苗字がついて「中濱万次郎」という名前になりました。

そのため、ジョン万次郎の子孫は「中濱」姓を名乗っています。ジョン万次郎の長男である中濱東一郎氏は、医師になりました。1936年に、父について書いた「中濱万次郎傳」を出版しています。ジョン万次郎の孫で中濱東一郎の娘である中濱絲子氏は、与謝野晶子と同時期に「明星」などで歌人として活躍。「白藤の君」と呼ばれる女性だったと伝えられています。

しかし、歌を出すようになってから嫌がらせの手紙が届いたことから、結婚を機に、10カ月程度で活動をやめてしまいました。
ジョン万次郎の曾孫にあたり、ジョン万次郎の三男・中濱慶三郎氏の孫にあたる中濱武彦氏は、ジョン万次郎の人生を伝える作家として活動。著書に「ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎」や「ジョン万次郎に学ぶ日本人の強さ」などがあり、曾祖父であるジョン万次郎という人物の生涯を、資料をもとにして紹介しています。

ちなみに、ジョン万次郎の子孫と、ホイットフィールド船長の子孫は、代々交流を続けているとのこと。時代を超えた絆のようなものができているのかもしれませんね。

ジョン万次郎が大河ドラマ化?!アメリカの児童書はニューベリー賞に

ジョン万次郎に馴染みのない現代人も少なくない中、高知県の土佐清水市内には、「ジョン万次郎NHK大河ドラマ化」という大きな看板が掲げられています。「ついにジョン万次郎が広く知れ渡る時が来たか?」と思いきや、看板の上のほうには、小さく「目指せ実現!!」の文字が。ジョン万次郎ゆかりの土佐清水市が、大河ドラマ化を狙って、実現するまで設置する方針のようです。看板を見られるのは、土佐清水市を走る国道沿いの11カ所。大河ドラマ化が実現すれば、「目指せ実現」が「祝」になる予定だとか。

一方、ジョン万次郎の生き様を描いたアメリカの児童書「HEART of SAMURAI」が、2011年に、全米図書館協会によるニューベリー賞においてオナー(次点)ブックに選ばれています。若くしてたった1人でアメリカへ渡り、腐ることなく勤勉に学び働いたジョン万次郎。捕鯨船乗組員たちが訴える日本の鎖国の現状を問題視して帰国を決意するという、他者を思う姿勢も、アメリカ国民は高く評価しているのでしょう。

手柄を得ようと結果ばかりを追い求める風潮のある現代社会においても、謙虚で勤勉なジョン万次郎の生き方は、多くの人にとってお手本であることは間違いありません。

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