ジャンボ尾崎(尾崎将司)マナーは悪いが華があった!異色の経歴とは?

ジャンボ尾崎(尾崎将司)マナーは悪いが華があった!異色の経歴とは?

ジャンボ尾崎(尾崎将司)はマナーが悪く自己中心でバッシングも!天性の華やかなプレーは一時代を築いた!

プロゴルファーの「ジャンボ尾崎」こと尾崎将司(おざきまさし)は、とてつもないドライバーの飛距離で一世を風靡し、一時代を築いた、まさにゴルフ界のレジェンド。その反面、マナーの悪さや、横柄な態度、勝手気ままさが批判の的にされてきました。

愛煙家であることから、ラウンド中でもはばかることなく平然とタバコをくわえるマナーの悪さ。自分の気に入らない大会やコースとなると、一切見向きもしようとしない徹底した自己中心ぶり。それらの行為が、他のプレーヤーやファンの眉をひそめさせてきたことは、紛れもない事実です。しかし、単にそれだけならば、長年ゴルフ界に君臨し続けるのは不可能だったはず。鼻つまみ者として、とうの昔に淘汰されていたことは間違いありません。

当然ながら、全盛時の彼へのバッシングも相当強かったわけですが、天性の華やかさとその実績は、そんな逆風すらものともしないものでした。ジャンボ尾崎が優勝争いに名を見せない大会の何とも物足りないことか。しかし最終日、猛然と追い上げるジャンボ尾崎の姿に、上位陣は我を失い、バタバタと崩れていったものです。

そして、いつの間にか優勝を手にするジャンボ尾崎。日頃の素行の悪さも忘れてしまうほど、彼のゴルフには華があり、人々の心をとらえて離しませんでした。

ジャンボ尾崎(尾崎将司)には甲子園球児として名を馳せた異色の経歴が!同期の池永正明の凄さにプロ野球から足を洗った!

ジャンボ尾崎(尾崎将司)のプロ入りまでの長い道のりをプロフィールと共に紹介しましょう。1947年1月24日生まれで、今年70歳を迎えました。本名は「尾崎正司」(読み同じ)。出身は、徳島県海部郡宍喰町(のち海陽町)で、身長181cm、体重76kg。今でこそプロゴルファーとして不動の地位を築き上げましたが、もともとは甲子園球児として名を馳せたという異色の経歴を持っています。

高校時代、徳島県立海南高等学校(現・海部高等学校)のピッチャーとして、1964年春のセンバツに初出場しただけでなく、見事に初優勝へと導いた輝かしい経歴の持ち主です。その実績が評価され、1965年にプロ野球の西鉄ライオンズ入り。同期には、下関商業高の池永正明がおり、ともに将来の西鉄投手陣を担う存在と期待されました。

しかし、池永正明のピッチングに、ジャンボ尾崎は、「こんな凄いピッチャーと競争しても到底かなわない」と圧倒されて、ピッチャーを断念。野手に転向したものの、特筆すべき実績も残せず、プロ野球から足を洗うことを決意し、球団からの慰留にも翻意することなく、西鉄を退団します。

野球を辞めたのは、「池永に勝ちたかったから。野球と違う世界であいつを追い抜きたいという思いが強かった」からでした。ジャンボ尾崎は、周囲の勧めもあって、プロゴルファーの道を歩むことを決意。1970年にプロテストに合格し、晴れてプロゴルファーへのスタートを切りました。同時に本名の「正司」から「将司」に改名。1971年の日本プロゴルフ選手権で初優勝を果たすと、1973年には、26歳にしてマスターズトーナメントで東洋人初の8位入賞に食い込むなど、日本プロゴルフ界の実力者へとのし上がりました。

同世代のライバルには、青木功や中嶋常幸がいます。日本ゴルフツアーでは通算94勝、賞金王12回、メジャー大会20勝は歴代でも最多。世界プロツアー最多となる113回の優勝回数も誇り、2010年には、世界ゴルフ殿堂入りも果たしました。弟の尾崎健夫、尾崎直道もプロゴルファーとして活動し、「ジャンボ軍団」として、ゴルフ界の一大勢力となっています。ジャンボ尾崎は、まさに、日本のゴルフ界をリードして来た存在といえるでしょう。

ジャンボ尾崎(尾崎将司)ゴルフ名言集!練習場付き自宅の現在は?

ジャンボ尾崎(尾崎将司)は名言「ゴルフでは体技心」で時代変遷を表現!現役への飽くなきこだわりも!

強い個性で鳴らしたジャンボ尾崎(尾崎将司)は、それにふさわしい名言集も残しています。「ゴルフでは体技心の順だ」。これは、ジャンボ尾崎がゴルフデビュー以来、絶えず口にする名言です。それまで、プロゴルファーといえば、「職人」と形容されるのが普通。ゆえに、「心技体」の順番で語られることが多いものでした。

ところが、球界から転向してきたジャンボ尾崎には「心技体」はあてはまりません。野球で鍛え抜かれた肉体を武器に、規格外の距離をかっ飛ばし、「ジャンボ」のニックネームを頂戴した尾崎将司。その結果、ゴルフ人気は過熱する一方となりました。

ジャンボ尾崎は、「体技心」の意味をこう語っています。「体あってこそ高度な技術も身につく。いくらメンタルが強くても、技術がなってなければトーナメントにも勝てやしない。土台となる体なくしてゴルフで成功はできないよ」。この名言は、日本ゴルフ界が、「職人」から「スポーツプレーヤー」へ変遷していった事実を端的に表現してもいます。また、「下積みがあってはスーパースターにはなれない」。

これは、スーパースターの条件についてのジャンボ尾崎の名言で、鳴り物入りでプロ入りしても、その年から低迷してしまえば、一時代を築くスーパースターたりえないというわけです。ジャンボ尾崎自身も、スーパースターの座へとまっしぐらでした。そんな経験があるからこそ、ずっしりと重みをもつ名言といえます。

「現役にいる限り、レッスンはやらないし、技術書も残さない」。これはジャンボ尾崎の現役への強烈なこだわりが見える名言です。実際に、ジャンボ尾崎が、自らのスキルを活字に残したことは皆無に近いはず。そこには、飽くなき現役へのこだわりと同時に、一般人にハイレベルな技術論は理解できないという思いもあるのかもしれません。

「成長が止まったら、その時は技術に関する本も書く」と言うジャンボ尾崎。こうしてみると、ジャンボ尾崎の名言集は、自己の経験に基づく強烈なプライドで貫かれていることが分かります。

ジャンボ尾崎の自宅は練習場付きの豪邸だった!負債返済で売却され現在は分譲住宅地に!

スーパースターとして一時代を築いたジャンボ尾崎ですが、その象徴と言えるのが彼の自宅です。ジャンボ尾崎の自宅は、ゴルフ界の実力者にふさわしい威容だったと伝えられていますが、現在はどうなっているのでしょうか?まずは、自宅の内容と規模を振り返ってみましょう。

ジャンボ尾崎の自宅は、千葉県習志野市に建てられていたと言われ、自宅にゴルフ練習場が付いていた豪邸だったそうです。周辺の一般邸宅と比べてもかなり広大な敷地が、高い塀で囲まれており、中からは、門下生の練習音とおぼしい音が響いていたという証言も。しかし現在はというと、すでに取り壊しされてしまったとのこと。

ジャンボ尾崎は、莫大な負債を抱えていて、その返済に充てるため売却してしまったようです。かなりの収入を得ていたはずですが、不動産投資などで50数億円とも伝えられる負債を持ったジャンボ尾崎。かつての自宅跡地は、不動産業者が購入し、分譲住宅地として売りに出されたとされています。栄枯盛衰とはまさにこのようなことを言うのでしょう。

ジャンボ尾崎(尾崎将司)再起にかける決意!結果が出なければ現役にピリオド!

ゴルフ界に黄金時代を築いた「ジャンボ」尾崎将司も、今や70歳。一時の飛ぶ鳥を落とす勢いはありませんが、並々ならぬ決意をその胸に秘めていました。ジャンボ尾崎は、「今年は結果が出なければ、クラブを置きますよ。皆さんともお別れになる」と、2017年にかける意気込みを示しています。

国内ツアー通算94勝を挙げたスーパースターも、昨シーズン成績は12試合に出場して、予選通過はゼロ。棄権は9試合に上り、全盛期を知る者にとっては何とも寂しいシーズンでした。自身にとっての最終戦「ダンロップフェニックス」では、腰痛に苦しみ、2日目に棄権。「重大な局面に立たされている。オフにゆっくり考えてみたい」と苦しげに語り、その去就に注目が集まっていた矢先のことでした。

「ここ2年間は、とてもつまらないことが故障の原因。まずは、体を整えて前向きな気持ちを引き出したい」と、日常生活から体調の改善を心掛け、再起に向けて歩み始めています。その効果あってか、「11月ごろは人と顔を合わせるのが苦痛だった。その頃に比べたら非常にいい感触」と、表情にも明るさが戻ってきました。

「昨シーズンのように1.5ラウンドで棄権をしないことが基準。4日間やり通したい」と一大会をやり抜く決意を示したジャンボ尾崎は、対策として、下半身中心のトレーニングで持久力をつけているとのこと。70歳を迎えたことにも、「う~ん、自分では(年齢への思いは)これといってない。大事なのは常にゴルフに前向きになれるかどうかだね」と格別な思いは見られないようです。

国内開幕戦に向けて準備を重ねる尾崎将司。その気概が、寄る年波を一蹴するのか否か……すべては背水の陣となる来たるシーズンに答えが出そうです。

関連記事

ページ上部へ戻る