高田延彦が語る「出てこいや!」秘話!武藤敬司との名勝負はUWFインターナショナル最後の華

高田延彦が語る「出てこいや!」秘話!嫁・向井亜紀との間に体外受精で子供を授かる

高田延彦が語る「出てこいや!」秘話!「PRIDE」主催者の要請で考案

元プロレスラーの高田延彦(たかだのぶひこ)はプロレスラーとして活躍した後、総合格闘に転向し、現在はタレントとしても活躍しています。「出てこいや!」のキャッチフレーズが真っ先に浮かぶ高田延彦。始まったのは「PRIDE」時代で、ふんどしスタイルで登場し、大太鼓を叩きながら「出てこいや!」と選手を呼び込むパフォーマンスは恒例となりました。

現在も、「RIZIN」のリングでパフォーマンスを演じながら、「強者どもよ、出てこいや!」と叫ぶなど、インパクトの強烈さは相変わらずです。では、どのように誕生したのでしょうか?それは、2003年8月の「PRIDE」ミドル級開幕戦のことでした。

高田延彦は、主催者側から「選手呼び込みをお願いします。内容はお任せしますから」という要請を受けたそうです。そうは言われても、大向こうをうならせる名文句など簡単に考案できるものではありません。何日間もかけていろいろ悩んだものの、「これだ!」というアイディアは出てきませんでした。

試合が直前に迫っても決めかねていましたが、「力の限り闘う選手にリスペクトを込めて、威勢よくかっ飛んで」とポイントを抑えた瞬間、スッと浮かんだとか。こうして、あの「出てこいや!」が産声を上げました。

高田延彦の嫁は向井亜紀!子宮頸癌で自力妊娠断念も体外受精で子供を授かる

私生活では、1994年に、女優でタレントの向井亜紀と結婚。幸せそうな2人でしたが、2000年9月に、嫁の妊娠判明と同時に子宮頸癌が発見されます。この時に子宮を全摘出した向井亜紀は、自力妊娠は不可能となりました。しかし、体外受精を行った夫妻は、アメリカの代理母を通じた双子の出産に成功。

子供たち誕生後は、国籍や戸籍の取得などでさまざまな難問に直面し、紆余曲折の末に特別養子縁組の手続きが取られたため、戸籍上は養子として扱われています。とはいえ、高田延彦夫妻の子供であることに何ら変わりはなく、苦労を重ねた分、父親としての思い入れもひとしおでしょう。

「平成の格闘王」「青春のエスペランサー」などの異名を持つ高田延彦は、1962年4月12日生まれで、神奈川県横浜市戸塚区(現・泉区)出身です。少年時代は野球に熱中し、オール横浜に選出されるほどでしたが、憧れの長嶋茂雄の現役引退で野球熱が冷め、1980年に新日本プロレスへ入団。翌1981年5月にデビューします。

1982年からはアントニオ猪木の付き人を務め、1983年のカナダ遠征にも同行。欠場した初代タイガーマスクの代役で試合に出場して勝ちを収めたことから、ポスト・タイガーマスクとして一躍脚光を浴びるようになりました。1984年には、新日本プロレスを離脱してUWFに移籍し、ファンの語り草となる名試合も多数残しています。

特に、1988年に立ち上げた第2次UWFでは、前田日明らとともに柱として活躍して一時代を築き上げました。その後、UWFインターナショナル立ち上げを経て「高田道場」を主宰。総合格闘技興行「PRIDE」設立に尽力し、日本の総合格闘技ブームの火付け役ともなりました。2002年に現役引退後も、そのまま「RIZIN」などの興行に関わり、タレント、実業家としても精力的に活動しています。

高田延彦と武藤敬司の名勝負とは?前田日明との不仲原因はUWFインターナショナル?!

高田延彦と武藤敬司の名勝負とは?実現不可能とも言われた勝負の結果は?

高田延彦は、輝かしい戦歴の中で、数あまたの名勝負を繰り広げてきました。その中でも、白熱の名勝負を演じた相手として、武藤敬司の名を欠かすことはできません。両者は2度の勝負を繰り広げ、結果は1勝1敗と互角です。2人が激闘に至った背景には、高田延彦が立ち上げたUWFインターナショナルと、武藤敬司の所属する新日本プロレスの全面抗争があります。

その最中に開催されたのが「新日本プロレス VS UWFインターナショナル全面戦争」(通称「10.9」)で、2人の対戦がメインイベントとなりました。会場のボルテージが最高潮に達した中で始まったのは、60分1本勝負。結果は、足4の字固めで武藤敬司が勝負を制し、「最強」を掲げてきた高田延彦とUWFインターナショナルは大きなダメージを受けることに。

翌1996年1月4日に、再度リングで相まみえた両者ですが、この対戦は高田延彦が勝利をものにし、リベンジを果たしました。しかし、大物選手やスポンサーもまともにいなかったUWFインターナショナルの落日に歯止めをかけることはできず、同年12月に解散を迎えてしまいます。思えば、高田延彦と武藤敬司の名勝負は、UWFインターナショナルの最後の華となったように思えてなりません。

高田延彦と前田日明の不仲原因は?UWFインターナショナル立ち上げに不信感?

高田延彦にとって、かつての盟友といえる存在があるとすれば、新日本プロレス時代からUWF時代まで行動を共にした前田日明の名を挙げるプロレスファンも多いことでしょう。しかし、同じ釜の飯を食べた仲で、兄弟のように強い絆で結ばれていたはずなのに、今や全く交流を持たないほど不仲だと伝えられています。

それにはどうやら、高田延彦がUWFインターナショナルを立ち上げた際のいきさつが大きく影を落としているようです。そもそも、UWFから独立して新団体を立ち上げるため奔走していたのは前田日明でしたが、高田延彦が先にUWFインターナショナルを設立したことで、「出し抜かれた」と不信感を抱いたと言います。

それに加え、さまざまなトラブルが積み重なり、2人の関係は修復不可能な状態にまで悪化したとか。真相は定かではありませんが、ここまでこじれたからには、ほかにも表に出てこない摩擦があったと考えられます。2人が和解すれば、低迷している日本の格闘技界を盛り上げることも可能でしょうが、その可能性は限りなく低そうです。

高田延彦が明かす豪快飲酒エピソード!グレイシー戦で初めて1年間禁酒していた

大の酒好きでもある高田延彦は、時おり酒にまつわるトークを披露しています。日本テレビ系「ナカイの窓」の「酒飲みSP」に酒好き芸能人の1人としてゲスト出演した時に、プロレスラー時代の飲酒絡みの裏話や、伝説のファイトの舞台裏を明かしました。

MCの中居正広から「二日酔いで試合したことありますか?」と話を振られると、プロレス時代は、日中は試合をして夜は先輩とたっぷり飲む毎日で、「飲んだ酒の汗は試合で出す」と豪快な回答。「試合中に気持ち悪くなったことは?」という質問にも、「スリーパーホールドを決められた時は、ちょっと待てよ、俺が酒臭いの分かってるだろって」と舌も滑らかです。「プロレスには、そんなことが許された時代があった」と過ぎし日を懐かしむように語りました。

一方、総合格闘技に転じてからは、「何カ月も完全に酒を断って、コンディションを整える」と、二日酔いで試合することなどありえないと断言。1997年10月に行われたヒクソン・グレイシーとの一戦に「二日酔いでしたか?」と水を向けられると、「二日酔いだったら怒られるよ。あの試合のために初めて1年間禁酒した」とガチンコ勝負の舞台裏も明かしています。

酒を断って試合に臨まなければならないくらい、総合格闘技での勝負はハードだったということでしょう。やはり、日本に総合格闘技ブームを呼んだ功労者として、高田延彦の存在を抜きにしては語れません。年齢的にも56歳、格闘技ブームが衰退したとも言われる今、まだまだ彼の活躍が期待されます。

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