黒澤明の死因は?天才映画監督の生い立ちとは?

黒澤明の死因は?天才映画監督の生い立ちとは?出典:http://www.eiganokuni.com

黒澤明「影武者」あらすじネタバレ!天才映画監督の生い立ちとは?

黒澤明の「影武者」にもし勝新太郎が主演していたら?!

黒澤明後期の話題作は、なんといっても「影武者」でしょう。監督70歳の時の作品で、独自の重厚で美しい映像に圧倒されます。しかし、映像美やシェークスピア劇のような様式美が大仰過ぎて、ストーリーが追いつかず、一般の人にとっては、娯楽作品として見るには少々荷が重い作品です。初期の作品のように、誰もが文句なく面白いといえる作品ではありません。

物語は、戦国の武将・武田信玄が、「我が死は、3年秘せ。その間、一切撃って出てはならぬ。山のように構えよ」と、「甲陽軍艦」に記された遺言の一節をモチーフに展開します。さてそのストーリーですが、武田信玄(仲代達矢)には、かねてから影武者がいるという噂がありました。

実は、その影武者とは、弟の信廉(山崎努)でした。そんな折り、信玄に生き写しのコソ泥が捕まり、信玄たちは、彼を影武者に仕立てようとします。最初、影武者になることを拒んでいた男は、信玄が、戦いの最中に不慮の死を遂げたのを知って、なぜか影武者になると翻意。孫や、仕える側女たちを手なづけて、戦を見事に差配した影武者は、次第に重臣たちの信用も得るようになりました。

しかし、それもつかの間、孫の頼みで、信玄しか乗りこなせない名馬に乗ろうとした影武者が落馬。駆けつけた家臣たちの前で、信玄の体にあるはずの傷がないことが暴かれ、偽物であることがばれた影武者は、館を追放されます。その後、信玄の息子である勝頼(萩原健一)が実権を握った武田勢は、信玄の「山のように動かず」という遺言を破って、進軍を開始。しかし、桶狭間の戦いで、織田信長(陸大介)の鉄砲隊を前に、無残にも破れてしまいます。

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そこには、刀を振りまわし、今まさに命果てようとする影武者の姿がありました。歴史に「もし」はありませんが、この影武者を、当初のキャスティング通り、勝新太郎が演じていたら、この映画は、黒澤明晩年の大傑作になっていたかもしれません。

黒澤明は画家志望から映画監督になった

黒澤明は、1910年、東京に生まれました。旧制中学を卒業後、画家の道を歩むとともに、左翼運動に傾倒します。黒澤明のコンテのうまさや、ダイナミックな画角の取り方は、この頃に培われた美術的センスによるものでしょう。しかし、画家としての才能に見切りをつけた黒澤明は、1936年、100倍の難関を突破して、後に東宝と合併したP.C.L.映画製作所の助監督となります。

そして終戦前の1943年、「姿三四郎」で監督デビューを果たしました。戦後まもなく、オーディションに落ちていた三船敏郎を発掘。以後1960年代にかけて、モノクロによる「羅生門」や「生きる」「七人の侍」など、数多くの作品が国際的な映画賞に輝き、世界のクロサワとして名を馳せるようになりました。しかし、1960年代の終わりには、日米合作「トラ・トラ・トラ」で、日米両国の制作スタッフと衝突し監督を降板。自殺未遂を起こしたこともあります。

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また、1970年代以降のカラー作品は、映画としての評価がわかれる作品が多かったようです。1995年、黒澤明は、京都の旅館で脚本を執筆中に転倒して骨折。以後、療養生活をしていましたが、1998年、脳卒中で亡くなりました。享年78歳でした。

黒澤明の名言に溢れる映画愛!息子や家族の現在は?

黒澤明が映画と後進に捧げる珠玉の言葉とは

黒澤明の映画監督としての評価は、決してすたるものではありません。今もなお、世界中の映画人が敬愛してやまない黒澤明は、映画について、多くの言葉を残しています。「ものを創る人間にとって、完全が目標です。完全に満足のいく作品なんてないから、次の作品こそは完全無欠な作品をと願うわけです」と語った黒澤明は、「だから、僕にとって一番の作品はネクスト・ワンです」と続けました。

まさに、映画監督として、至言といってよい言葉です。また、「コツコツと、少しでも完璧なものを作ろうと、来る日も来る日も工夫に工夫を重ねて、何代も受け継いできた技がある。そんな職人たちにとって、もの作りが人生なんだ」と、職人の姿と自身の取り組み姿勢を重ねながら、「継承する人もなく、材料も手に入らない。こういうことを助けるのが国だろう、それが文化を守るってことだ」と、国による、映画文化の保護育成を訴えています。

黒澤明の一族は芸能一家でも、映画監督を継ぐ者はいなかった

黒澤明は、元女優の矢口陽子と結婚。1男1女がいます。息子の黒澤久雄は、かつて俳優もしていましたが、現在は、黒澤明監督の著作権管理などを行う、黒澤プロダクションの代表を務めています。一方、娘の黒澤和子は、デザイナーになりました。ちなみに2人とも離婚しています。

黒澤久雄の前妻は、70年代のアイドル、林寛子です。3人の子供のうち、長男は一般人として暮らし、長女は、ロック歌手の松岡充と結婚。次女は、黒澤萌として歌手デビューしています。黒澤和子の一人息子は、俳優の加藤隆之です。黒澤明一族の中で、映画監督の道を選んだ者はいません。

黒澤明と北野武はフランスの最高勲章「レジオン・ドヌール勲章」に輝く世界的映画監督

黒澤明は、1993年に「ソナチネ」を撮ったばかりの北野武と、興味深い対談を行っています。対談の始め、さすがの北野武も、世界のクロサワの前で緊張していました。黒澤明は、映画好きの青年の話を聞く好々爺といった雰囲気で、何より、「ソナチネ」までの北野作品を全て見ていると話したのが驚きでした。そして北野作品を評して、ストーリー展開に、「余計な説明がないのがいい」と、素直に褒め、北野武は照れながらも、我が意を得たりと話が弾みます。

2人の意見が一致したのは、「映画に、セオリーや、段取り、カットなどいらない。監督が撮りたいように撮ればよい」ということでした。また、映像をつなぐリズムさえたしかで心地よければ、観客はおのずと映画に引き込まれていくものだとも語っています。

2人が海外で評価されているのは、黒澤明は、その重厚な映像美や、ギリシャ悲劇やシェークスピアなど、古典に通じる様式美であり、北野武は、北野ブルーと呼ばれる独特の映像であり、静謐な狂気ともいうべき暴力描写にあります。2人の表現は、ヨーロッパ人の死生観にも通じる何かがあるように思われ、ともにフランスで、とりわけ高い評価を得ています。

黒澤明は1985年、フランスの最高勲章である、レジオン・ドヌール勲章の3等位、コマンドールを受賞していますが、北野武は先日、レジオン・ドヌール勲章の4等位にあたるオフィシエを受賞しました。北野武は、黒澤明が亡くなった80歳まで、あと10年。今後、北野武が世界のクロサワを抜くことができるかは、映画ファンにとってとても楽しみな話題です。

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