前原誠司の父親は?謎多きイケメン政治家の生い立ちは?

前原誠司の父親は?謎多きイケメン政治家の生い立ちは?

前原誠司は中2で父が自殺し、苦学して京都大学を卒業後、松下政経塾へ

前原誠司は、1938年生まれの54歳。彼の人生に影を落としたのは、中学2年のとき、京都家裁の総務課庶務係長だった父の自殺です。その後、母子家庭となり、経済的に苦労したようですが、小さい頃から成績が優秀だった前原誠司は、京都教育大附属高校から1浪して京都大学法学部に入ります。

京都大学入学後は、寝る間もなくバイトをして学費を稼いでいたそうです。大学では、国際政治学者として著名だった高坂正堯の元で学び、卒業後は師の勧めにより松下政経塾へ入ったことで、政治家への道が具現化しました。小さい頃は鉄道オタクだったという前原誠司。世代的にはオタク第一世代に当たる前原誠司は、政治家を目指していたわりには、自己アピールやコミュニケーション能力に乏しく、端正な顔立ちである分、余計に仏頂面が目立ちます。

また、在日韓国人からの献金が発覚して以降、保守勢力やネトウヨから、格好の攻撃対象になっているようです。

前原誠司は55年体制崩壊後を担う若き政治家のエリートだった

前原誠司の顔を、最近久しぶりに見たような気がします。それは、先日行われた、民進党の党首選挙でした。「少年老い易く学成り難し」という、漢詩の一文がありますが、前原誠司の場合は、「青年老い易く政成り難し」というところでしょうか。思えば1993年、1955年以来、政権党として君臨し続けた自民党は、長年の金権汚職政治が災いし、ついに佐川急便事件で瓦解。離党者も多く出て、衆議院を解散します。

しかし、その後の選挙では前熊本県知事を擁する細川護煕の日本新党など、クリーンで新しい政治を目指す新党が躍進。ついに自民党は下野し、細川連立政権が樹立されました。前原誠司は、1991年、松下政経塾を卒業してすぐ、28歳の最年少で京都府会議員に当選すると、1992年に日本新党に参画。この時の衆議院選挙に京都1区から出馬し、見事当選を果たしました。日本の新しい政治を目指す青年・前原誠司は、前途洋々なスタートを切ったかに思われましたが、その後、所属する党の集合離散の中で埋没していきます。

前原誠司に背乗り疑惑浮上?「言うだけ番長」と呼ばれるワケとは

前原誠司の「背乗り疑惑」は男前のネクラで仏頂面が原因?!

前原誠司には、「背乗り」疑惑という、とんでもない噂があります。背乗りとは、他国のスパイなどが、行方不明者の戸籍を乗っ取り、その本人に成りすます、という警察用語。中学2年の時、父親が自殺してしまった前原誠司は、1人ふらりと京都の舞鶴港に出かけたまま失踪したことがあり、今の前原誠司は、彼に背乗りした北の工作員であるという噂です。

この説は、小学生の頃、1人で田舎の鳥取へ帰る途中に米子に親戚が迎えにきてくれているのに、鉄道好きだった前原誠司が、玉造温泉まで行ってしまい失踪騒ぎを起こしたというエピソードが下敷きになっているようです。さらに、父親の自殺や両親が山陰出身であること、加えて在日韓国人献金問題を組みあわせた悪質なデマとしかいいようがありません。

前原誠司が党内の仲間も結集できず「言うだけ番長」に

前原誠司の「背乗り」疑惑を信じたネット族は、前原誠司が、高校、大学時代に友人が少なく、彼にまつわるエピソードが見かけられないことを挙げ連ねています。こんな噂が出てしまうのも、前原誠司の人徳や人気のなさが尾を引いているようです。前原誠司は、2年前の2014年、日本維新の会・橋下徹共同代表のグループとの将来的な合流の可能性を100%と打ち上げました。

しかし、これまで何度も集合離散を重ねてきた現在の民進党ですが、日本維新の会との合流は実現されていません。先般の民進党の党首選に出馬したときにも明らかだったように、党内において、新たな仲間すら獲得することもできない前原誠司は、とうとう「言うだけ番長」という汚名を着せられてしまいました。

前原誠司の民進党党首選出馬の違和感と今後

前原誠司が、民進党党首選挙に立候補した際には、今更感が拭えませんでした。もはや民進党の主流ではなくなった前原誠司は、案の定、信任を得られず、党首となったのは、蓮舫議員。一般国民の党に対するマイナス感情や二重国籍問題もなんのそのという結果でした。

しかし、「自分は旧民主政権の戦犯で、国民に土下座する先頭に立って党の信頼回復に努めたい」という前原誠司の訴えは、反自民勢力として民進党を応援してきた国民に、ある意味もっとも寄り添った主張ではなかったでしょうか。前原誠司は、京都大学を卒業後、松下政経塾に入りました。松下政経塾は、現在のパナソニックである松下電器の創業者である松下幸之助が、私財を投じて、1979年に設立した政治塾であり、21世紀の日本を担う政治家を養成する私塾。

これまでの卒塾生242名の内、53名が国会議員となっています。中でも、前原誠司が初当選した1993年の衆議院議員選挙では、15人の卒塾生が当選し、以後の選挙でも、毎回10人以上、2009年には31名が衆議院議員に当選しています。しかし、その多くは現在の民進党系野党に属し、その集合離散の中、政治的手腕を発揮する前に、自らの政治生命を維持するのに精いっぱいです。

前原誠司は、まだ54歳。もし自分が本当に目指す政治を行いたいならば、今の民進党を潔く離れ、自らの政治方針を明確にして、自らの党を作るべきではないでしょうか。あるいは、自分が目指す政治・政策と近い政党があるならば、その門戸を叩き、政治家本来の仕事である、政策の実現を目指してもらいたいものです。

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