増位山太志郎は北の湖と同期の元大関!家族の勧めで歌手に転身!?

増位山太志郎は北の湖と同期の元大関!家族の勧めで歌手に転身!?出典:http://www.oricon.co.jp

増位山太志郎は北の湖と同期の元大関!家族の勧めで歌手に転身!?

増位山太志郎は初場所が北の湖と同期の元大関だった!親子二代で大関昇進は史上初!

増位山太志郎(ますいやまだいしろう)は、相撲界きっての美声の持ち主で、歌手としての活動も知られた元大関です。現在は、日本相撲協会を定年退職し、再び歌手としての活動に力を入れています。そんな増位山太志郎ですが、昨年惜しまれながら他界した元横綱・北の湖理事長とは、初土俵が同じ1967年1月場所で、大相撲同期だったそうです。

亡くなった北の湖は、昭和の相撲史に輝く大横綱ですが、同期の増位山太志郎よりも5歳年下。関脇、小結の地位で足踏みを続けた増位山太志郎とは対照的に、21歳2カ月という異例のスピードで横綱昇進しています。バッシングすら浴びるほどの無敵ぶりは、「憎らしいほど強い」と形容され、敗れると観客がドッと沸いたほどでした。相撲協会理事長の要職を務めましたが、昨年11月に現職のまま62歳で他界。「自分より年下だから寂しい」と漏らした増位山太志郎の思いは、素直なものなのでしょう。

増位山太志郎は、1948年9月16日生まれの68歳。兵庫県姫路市出身で、本名は澤田昇(さわだのぼる)。現役時代は、三保ヶ関部屋に所属し、最高位は東大関。父親は、師匠でもある大関・16代増位山大志郎です。小学生の頃から相撲好きだった増位山太志郎は、中学の時に、父親のいる三保ヶ関部屋入りを志願。当初は拒否されたものの、熱意に負けた父親から入門を許可されます。

1967年1月場所で初土俵を踏んだ当初の四股名は「瑞竜」でした。1970年3月場所入幕後、関脇、小結での足踏み状態が続きますが、1980年1月場所後に、念願の大関昇進。親子二代で大関に上ったのは、史上初の快挙でしたが、昇進後はパッとしない成績続きで、1981年3月場所で引退表明と、大関としてわずか7場所で終わりました。

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これは史上2位の短命記録でした。引退後は、父親の跡を継いで三保ヶ関部屋で親方として後進を指導。その美声で、現役時代から歌手としても活躍したほか、相撲協会でも審判委員を務め、物言いがついた際の説明役も任されていました。2013年をもって、65歳で相撲協会を定年退職しています。

増位山太志郎の歌手への「転身」は家族の勧めだった?アドバイスした父親も絵画などで多才ぶりを発揮!

増位山太志郎は、その甘い歌声で、歌手としての顔も持っています。現役力士時代からムード歌謡や演歌を歌い上げ、数多くのレコードをリリース。増位山太志郎の歌手「転身」のきっかけは、家族の勧めがあったからだったといいます。その家族とは、他ならぬ、父親であり師匠でもある三保ヶ関親方。「いろいろな芸を体験すれば、相撲にも幅や奥行きが生まれる。何でもいいからとにかく挑戦してみろ」というアドバイスを受けて選んだのが歌手活動でした。

父親の三保ヶ関親方自身も、絵画や歌などで多才ぶりを発揮し、特に絵では二科展入選を果たすほどですから、このアドバイスは重みがありますね。というわけで、増位山太志郎は、1972年、歌手デビューに漕ぎつけます。2年後となる1974年、「そんな夕子にほれました」が初ヒット。1977年8月リリースの「そんな女のひとりごと」は、130万枚の大ヒット。1978年「第11回日本有線大賞」で、有線音楽賞とベストヒット賞を受賞するなど、歌手として躍進しました。

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その後、歌手活動を一時期停止しながらも、2007年10月に、歌手として再デビュー。その甘くささやくかのような歌声は、ラジオ番組で、「小スケベ声」と呼ばれてネタにされたほどです。相撲協会を定年退職した後、2013年12月、現役四股名名義で、新曲「夕子のお店」を発表した増位山太志郎。その発表会の席上で、「今後は歌手で横綱を目指します」と、歌手として再スタートを切る決意を表明しています。

増位山太志郎のヒット曲まとめ!歌手活動復帰までの道のりとは?

増位山太志郎ヒット曲のまとめ!「そんな夕子にほれました」で歌手として初の大ヒット!

増位山太志郎の出した曲を全て網羅するのは困難ですが、主なヒット曲を、できるだけ順番にまとめてみましょう。歌手としてのデビュー曲は、1972年「いろは恋唄」。その後1974年にリリースした「そんな夕子にほれました」で、持ち前の甘い歌声を披露した増位山大志郎。

落語家の初代・林家三平の妻である海老名香葉子が作詞を担当したという話題性も手伝って、歌手として初の大ヒットを飛ばしました。ヒットに伴い、1976年には、姉妹編「誰か夕子を知らないか」も発売。1977年8月に発売した「そんな女のひとりごと」は、130万枚の売上を記録するとともに、1978年の第11回日本有線大賞で有線音楽賞とベストヒット賞を受賞しています。

ほかにも、「男の背中」など、数々のヒット曲を出してきた増位山太志郎。2012年には、松居直美とのデュエット曲「秘そやかに華やかに」をリリース。これは24年ぶりとなるデュエットで、増位山太志郎にとっても「長年の夢だった」と、感無量の曲となりました。

2013年に発売した「夕子のお店」は、「そんな夕子にほれました」と「誰か夕子を知らないか」に続く「夕子」シリーズ第3弾。これまでの「夕子」シリーズは、男性の胸中を歌う内容でしたが、「夕子のお店」では、女性目線に一転して、健気な女心を歌い上げているというのが特色です。2016年11月16日には、アルバム「増位山太志郎2017年全曲集」も発売される予定となっています。

増位山太志郎が相撲協会の規制で歌手活動停止に!時津風部屋事件を経て歌手活動復帰へ!

増位山太志郎は、一時期、歌手活動を停止していたことがあります。その背景には、1980年代後半の相撲協会が、親方や力士の副業を規制する動きを見せ始めたことが大きく影響していました。つまり、親方や力士が歌手としてレコードをリリースすることや、CM出演することなどの副業が原則的に禁止されたのです。

その後、副業規制が緩和され始めたため、増位山太志郎は、2007年10月に、歌手として復帰。しかし、本格的な活動に復帰するまでの道のりには、まだ困難が待ち構えていました。なんと、時を同じくして、時津風部屋で力士暴行死事件が発覚。時津風部屋で新弟子として入門した少年が死亡するという事件が発生すると、部屋を預かる時津風親方(当時)が暴行を指示していたことが判明し、大騒動に。当然、増位山太志郎の歌手活動にも大きくブレーキがかかることになってしまいました。

同じ時期に、「水玉のスカーフ」の公開レコーディングが予定されていたのですが、突然中止を発表した増位山太志郎。「諸般の事情により」としていましたが、力士暴行死事件を受けての自粛であることは明白でした。それらのトラブルに見舞われながらも、歌手活動を続け、2013年に相撲協会を定年退職したことにより、歌手活動へより力を注げるようになりました。

増位山太志郎の新曲「夕子のお店」で綱取り目指す!歌手生活に2人の恩人の存在あり!

増位山大志郎が、「これからは歌手で横綱を目指します」と抱負を語ったのは、「夕子のお店」発表会でのこと。「夕子のお店」は、増位山太志郎の大ヒット曲「そんな夕子にほれました」に始まる「夕子」シリーズ39年ぶりの新曲です。哀愁をにじませた懐かしい昭和メロディーが、曲の魅力を引き立てるものになっています。

現在は、相撲協会を定年退職し、歌手活動も自由に行える立場になりました。そんな増位山太志郎が、歌手活動の恩人として名前を挙げるのが、演芸評論家の小島貞二と、音楽プロデューサー曽根一成の2人。増位山大志郎歌手デビューのきっかけは、父親の三保ケ関親方と親友だった小島貞二から、「レコードを出してみないか」という誘いを受けてのことでした。歌が好きだった増位山太志郎は快諾し、歌手デビューの運びとなります。

しかし、現役力士の身でキャンペーンに力を割くわけにもいかず、せっかく出したレコードも話題性だけで終わるかに見えたといいます。そんな中、部屋を訪ねてきたのが、音楽プロデューサーの曽根一成。「演歌職人」の異名を取るほど、演歌プロデュースには定評がある人物です。

そこで生まれたのがヒット作「そんな夕子にほれました」でした。これが大当たりしたからこそ、歌手・増位山太志郎の地位が築かれたといえるでしょう。今も歌手生活を続けられるのは2人の恩人の存在あってこそという増位山太志郎。今後も、歌手で「綱取り」を目指して歌い続けていく覚悟です

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