松田丈志(水泳)と久世由美子コーチの絆!決死のスポンサー探しは感動もの

松田丈志(水泳)と久世由美子コーチの絆!決死のスポンサー探しは感動もの

松田丈志(水泳)を支えた久世由美子コーチとの師弟関係を超えた固い絆!

松田丈志(水泳)といえば、リオオリンピック4×200mリレーで銅メダルを取った日本代表メンバーの1人。厳しい競技人生において、松田丈志を支えてくれたのは、久世由美子コーチの存在でした。
松田丈志と久世由美子コーチの固い絆は、松田丈志が小学4年の頃より築かれたものです。久世由美子コーチは、1947年、熊本県生まれ。旭化成に所属する競泳実業団選手でした。

1979年に東海スイミングクラブを設立すると、まだ4歳だった松田丈志が入会。ここから水泳の指導が始まります。松田丈志は、高い目的意識を与え工夫する努力を教え込むという久世由美子コーチの熱心な指導により、小学生の頃に頭角を現しはじめました。松田丈志に才能を感じていた久世由美子コーチは、格上である中学生の大会を見学させ、年齢制限のない合宿へ参加させたりと、さまざまな練習や教育を二人三脚で行います。

これらはすべて、日本代表入りを目指してのこと。2人の絆は、松田丈志が成長しても揺らぐことなく続き、信頼感はさらに強まっていきました。それは、「僕は、両親と久世コーチ、コーチの旦那さんの4人に育てられた」という松田丈志の言葉にはっきりと表れています。また、大学から入学のオファーが来た際に、松田丈志が「コーチが一緒でなければいかない。地元に残る。」と答えたというエピソードからも、絆の強さがうかがえるでしょう。

松田丈志(水泳)のために奔走した久世由美子コーチ!スポンサー探し感動秘話!

松田丈志(水泳)と久世由美子コーチは、ある時期、競技人生の中で大きな試練に立ち向かうこととなります。それは、スポンサー探しでした。2008年の北京オリンピックが終了した後に、契約していた「ミズノ」との契約が終了した松田丈志は、新しく「レオパレス」とスポンサー契約を結びます。

しかし、ロンドンオリンピックへ向け、本格的に練習を始めた2009年12月、「レオパレス」側からいきなり契約打ち切りを言い渡されてしまったのです。スポンサーがいない状態で、オリンピックへ向けて練習するのは、かなり不安定な環境です。そこで、久世由美子コーチは、スポンサーを探すため、累計600通にもわたる手紙を書きました。株価が好調な会社を見つけては、必死にスポンサー契約のお願いの手紙を送る毎日。久世由美子コーチは、松田丈志が少しでも安心して練習に励むことができるように、ひたすら企業へ手紙を送り続けたのです。

その甲斐あって、2010年にスポンサー契約を結ぶことができました、。新しいスポンサーは、福岡を拠点とするドラックストア「コスモス薬品」でした。コスモス薬品とは2013年までスポンサー契約が続き、翌年の2014年には、マネジメント会社を通じて、セガサミーホールディングスと所属契約を結んでいます。松田丈志のため、必死にスポンサーを探した久世由美子コーチ。長い付き合いと絆があってこそ、成しえたことに違いありません。

松田丈志(水泳)ビニールハウスのヒーローからバタフライ銅メダリストへ!

松田丈志(水泳)はビニールハウスのヒーローから世界へ!!

松田丈志(水泳)は、4歳の頃より水泳を習い、世界の頂点を目指す日本代表へと駆け上がりました。しかし、その練習環境は、決して恵まれたものではありませんでした。松田丈志が生まれ育った宮崎県延岡市には、設備の整ったスイミングスクールが少なく、習い始めた東海スイミングクラブも、ビニール張りの屋根で、まるでビニールハウスのようだったそうです。ですが、久世由美子コーチと運命の出会いを果たし、熱心な指導のもと、選手としての開眼していった松田丈志。

2004年のアテネオリンピックや、2005年の世界選手権でメダルを獲得するようになると、練習方法や、ビニールハウスのようなスイミングスクールという練習環境から、次第にマスコミから注目が集まるようになります。そうして与えられた称号が、「ビニールハウス生まれのヒーロー」「ビニールハウスのヒーロー」。

練習設備の乏しい中、久世由美子という素晴らしいコーチの熱心な練習指導のおかげで、ビニールハウスから世界へ飛び立つことができた松田丈志。どんな環境でも成長できるというメッセージは、日本各地で練習しているちびっ子スイマーたちにとっても、大きな励みになるのではないでしょうか。

松田丈志(水泳)がバタフライで世界をつかむ!オリンピックで2度の銅メダル!

松田丈志(水泳)が得意とする泳法はバタフライです。2010年、中国の広州で開かれたアジア競技大会では200mバタフライで金メダル、2012年のロンドンオリンピックでは200mバタフライで銅メダルに輝いています。松田丈志の日本記録を更新するスピードのある泳ぎには、日本中も歓喜にわきました。

しかし、バタフライにおいて、銅メダルは多くの大会で獲得するものの、銀や金といったメダルにはなかなか届かず、大きな壁にぶつかっていた松田丈志。「もう一度世界一を目指したい」という思いから、久世由美子コーチのもとを離れ、北島康介を育成した、東京・国立スポーツ科学センターの平井伯昌コーチに師事することになります。

そして1年。短期間ではあったものの、平井伯昌コーチの指導を仰ぎ、再び久世由美子コーチのもとへ戻ってきた松田丈志は、2016年、自身4度目となるオリンピック出場を決めました。種目は、4×200mリレーで、個人競技での出場はありませんでしたが、再び、世界一を目指す舞台に戻ってきたのです。

リオオリンピックの4×200mリレーでは、数秒の差で金を逃し銅メダルとなったため、松田丈志は、世界一になるという夢を達成することはできませんでした。しかし、強豪国と戦った松田丈志ら日本チームに、全国から惜しみない賞賛と拍手が送られました。

松田丈志(水泳)が男子4×200mリレーで52年ぶりの銅メダル!「これでこそ競泳大国と言える」

松田丈志(水泳)を含む男子水泳日本代表メンバーは、日本のオリンピック史に新たな歴史を刻みつけてくれました。現地時間の9日に行われたリオオリンピックの競泳男子4×200mリレーの決勝。第一泳者の萩野公介が2位につけ、そのまま江原騎士と小堀勇気が順位をキープ。最後の最後に、松田丈志が粘りの泳ぎを見せて、7分3秒50でゴール!日本チームは、見事、銅メダルを獲得しました。これは、1964年の東京五輪以来、52年ぶりとなる銅メダル。競泳大国としての強さを、再び世界に見せつけてくれるものです。

レース終了後、松田丈志は「思い出に残るレースになった」とコメントを寄せています。若手が多い中、松田丈志は31歳と、ベテランの域に達した選手です。当然、年齢を重ねるうえで、肉体的な衰えも出てきます。若い3人が泳いでいる姿を見守る中、松田丈志は、心の中で「自分がどれだけのパフォーマンスができるか」「消極的なレースにはしたくない」と葛藤を続けていたといいます。しかし、いくつもの厳しいレースをくぐり抜けてきた松田丈志。そこはベテラン選手の経験で、「結果はどうであれ、最高のレースにしよう」と、自らの心を奮い立たせプールへ飛び込んだそうです。

松田丈志は、フリーリレーでメダルを獲得できたことは、日本水泳界にとってどのような意味を持つかと問われた時に、「これでこそ競泳大国といえる。3人は東京オリンピックが視野にあると思うので、東京では金を目指してほしい」と答えました。東京オリンピックまで4年。2020年、松田丈志は35歳となるので、出場できるかは危ぶまれるところもありますが、もし彼自身が願うのであれば、その豊富な経験を活かしながら、今度こそ、東京オリンピックで世界一に輝いてほしいものです。

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