森本喜久男はカンボジアに村を作った日本人!がんで余命宣告されても治療しないわけ

2020年3月26日 更新

森本喜久男はカンボジアに村を作った日本人!生い立ちや経歴は?

森本喜久男はカンボジアに織物の村を作った日本人!伝統の森とは?

森本喜久男は、カンボジアで、内戦のために途絶えようとしていた伝統あるクメール織物と呼ばれる絹織物文化の再興に貢献した人物です。アンコールワットの遺跡群で有名なシェムリアップ郊外に、私財をなげうって土地を購入。荒地を開墾して、養蚕を手掛け、織り、染色を一連して行う絹織物を作りだす工房を開きました。

森本喜久男による一連のプロジェクトは「伝統の森」と呼ばれ、工房は、人々が働きやすいよう福利厚生が整えられ、子供たちのために学校も作られたそうです。絹織物の再興とともに、「織物の村」と呼ばれるようになった現在は、150人ほどが暮らしています。

森本喜久男は元は手書き京友禅の職人!生い立ちや経歴は?

現在は、カンボジアで活動をしている森本喜久男ですが、もともとは京友禅の職人でした。1948年に京都に生まれた森本喜久男は、幼い頃から織物文化に親しんで育ってきたといいます。23歳で、手書き友禅の世界と出会い、本格的に織物の道に進むことを決意。森本喜久男は、有名工房に弟子入りします。

ファッションの専門学校であるレイデザイン研究所でも学び、1975年には「森本染芸」を立ち上げ独立も果たしました。しかし、30代に入って京都での活動に漠然と行き詰まりを感じていた頃、タイを訪れる機会を得た森本喜久男は、カンボジアの織物に出会い衝撃を受けたといいます。以降、海外で自らの技術をいかして活動をしていくことになりました。

森本喜久男はがんで余命宣告されていた!家族や結婚は?

森本喜久男は膀胱がん!余命宣告されても治療しないわけ!

森本喜久男は、実は、2012年に、膀胱がんの診断を受けています。治療を受けなければ余命は5年との宣告でした。しかし、森本喜久男は、治療のためにカンボジアを離れることをしませんでした。人生を捧げてきた「織物の村」は発展の道半ばにあり、クメールシルクの復活のためにも、自らの治療でそれらを投げ捨てることはできなかったといいます。

また、もともと「ガンは病気だとは思わない。老化だ」「他界することは自然なこと」と捉えているようです。治療に専念せずに、村での活動を全うしようとする姿勢は、自らの死生観に従った判断なのかもしれません。

森本喜久男に家族はいる?20歳で結婚するも離婚していた!

ガンで余命宣告を受けてもなお、カンボジアでの活動を続ける森本喜久男。余命宣告を受け、痛みにたえながら活動を続ける森本喜久男には、支えてくれる家族の存在はないのでしょうか。実は、20歳で結婚しています。結婚後に自律神経失調症を患いますが、妻の支えもあったのか1年ほどで完治。

その後、20代半ばで工房を立ち上げて独立した頃には、娘の彩花が誕生。温かな家庭を築いています。しかし30歳になり、夫婦関係にしだいにすれ違いが生じはじめたことから離婚してします。現在の森本喜久男にとっては、深い絆で結ばれた「織物の村」の人々が家族のようなものなのでしょう。

森本喜久男はクメールシルクの伝統を命がけでつなげていた!

日本人でありながら、己れの人生をかけてカンボジアの伝統的な絹織物の復活に尽力した森本喜久男は、クメールシルク復活の立役者として、カンボジア国内でもその名を広く知られているといいます。そんな森本喜久男が築いた「織物の村」で生み出される織物は、カンボジアで受け継がれてきた伝統的な織物の技術と、現代にも通用する高い芸術性をあわせもっているといわれ、世界的にも高評価です。

しかし、クメールシルクの伝統は、森本喜久男がカンボジアを訪れた当時、衰退の一途をたどり消滅しかかっていました。森本喜久男と、クメールシルクとの出会いは、およそ30年前。京都で友禅職人として成功しながらも、その活動に行き詰まりを感じ、知人のすすめでタイを訪れます。そこでカンボジアの絹織物と出会い、その美しさに衝撃を受けたそうです。そして、「今やってることをタイでやったらいいのでは?」という知人の助言を受け、「筆1本あればどこでも行けることに気付いて」、海外で仕事をすることを決意しました。

そうして、タイにある難民キャンプの織物学校で、ボランティアとして活動を始めます。森本喜久男のタイでの活動は10年に及びました。タイの農村部で、草木染めの調査や指導を行い、また、現地の人々が作った絹織物が対等な対価で利益を得られるように、自ら草木染めのタイシルクの店の出店までしています。

今でいうフェアトレードの走りと言えるでしょう。このようにタイで精力的に活動をした後、森本喜久男は、ユネスコの依頼を受けて、カンボジアの手織物の調査に入りました。当時の政情はまだ不安定で、ポルポト派の兵士に遭遇して命からがらその場を逃れたこともあったそうです。

目にしたカンボジアの国内は、長く続いた内戦のため荒廃し、クメールシルクの技術を受け継いできた職人は離散しているような状況でした。そんな困難な現状を前にしても、くじけることなく、自ら魅せられたクメールシルクの復活のため、活動を始めていきます。森本喜久男は、良い絹織物を作るには、まず良い土を作り、良い桑の木を育て、その桑を食べさせて良い蚕を育てる必要があると考えました。

そのため、2003年には、私財をなげうって土地を購入し、「伝統の森・再生計画」を立ち上げます。また、職人たちが安心して働ける環境を整えることにも力を注いでいきました。小さい子供を持つ織り手のために、作業場近くに子供が寝られるスペースを設けたり、学校を整えたりもしました。

こうした活動は、今や大きな実りとなり、5ヘクタールからはじまった「伝統の森」は、現在23ヘクタールにまで広がっています。ガンの余命宣告5年がすぎた今、いつかは森本喜久男の生命の火が尽きる日もくるかもしれません。それでも、つなげたクメールシルクの伝統は、尽きることなく続いていくのではないでしょうか。

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