中曽根康弘元総理大臣は日航機墜落事故の真相を握っている?御巣鷹山で何が…

中曽根康弘元総理大臣は日航機墜落事故の真相を握っている?御巣鷹山で何が…

中曽根康弘は戦後政治の裏面を知る最後の生き残り

中曽根康弘は、1918年生まれの政治家です。人は、長く政治や組織の中枢にいると、実際に妖怪や生霊になるのかもしれません。戦前、戦後の日本政治の闇を知る人間は、いよいよこの人物が最後の生き残りとなりました。中曽根康弘は、東京帝国大学卒業後、悪名高き内務省の官僚となり、戦争中は海軍主計将校として赴任。終戦後に内務省に戻ると、退官後は衆議院議員となりました。

1959年に初入閣を果たした中曽根康弘は、1966年に自らの派閥、中曽根派を結成します。自由民主党の中では、その変わり身の早さが「風見鶏」と称され、派閥・金権政治の古いタイプの政治家といえましょう。1982年、田中角栄の助けを得て、内閣総理大臣に就任した中曽根康弘は、時のアメリカ大統領レーガンと、ロン・ヤスと呼び合う大物ぶりを披露しますが、1989年、案の上、リクルート事件に関与して、自民党を離党。

それでも、自民党に復帰した中曽根康弘は、1997年、大勲位菊花大綬章を受章。2003年には小泉改革によって、とうとう引退を要請されて、政界から引退します。中曽根康弘、85歳の時でした。そして月日は流れ、2016年。中曽根康弘は98歳になりました。彼は、戦後数々の汚職事件の多くに関与し、今ではその真相を知る唯一の人物といえます。

中曽根康弘が日航機墜落事故で墓場まで持っていく真実とは?!

中曽根康弘に関しては、1985年に起きた、群馬県の御巣鷹山日本航空123便墜落事故について、墜落による被害拡大を防ぐため、自衛隊機で撃墜を命令した、というとんでもない噂が流布されています。これは、中曽根康弘本人が、「真実は墓場まで持って行く」と、思わせぶりな発言したことが原因です。

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しかし実際は、田中角栄のロッキード疑惑がまた蒸し返されないよう、政府筋がボーイング社の報告書の作成を急がせ圧力をかけたとする説が、やがて都市伝説化したのではないかと想像されます。しかし、歴史というものは時として、決して真相にたどり着けない、深い闇を抱えるのも事実。日航機墜落事故は、今も多くの謎を抱えています。

中曽根康弘元総理大臣の経歴!政界引退の理由は何?

中曽根康弘がバブルや格差社会の原因を作った?!

中曽根康弘の内閣総理大臣在任期間は、1982年から1987年の5年間。当時は、田中角栄がロッキード事件により自民党を離党しながらも、無所属で衆議院議員に当選し、自民党を「闇将軍」として実質支配していた頃です。結局、田中角栄の支持を勝ち取った中曽根康弘が、福田赳夫や大平正芳を抑えて、自民党党首となり、内閣総理大臣となりました。中曽根康弘は、国会での施政方針演説で、従来の基本的な制度や仕組みをタブーなく見直す「戦後政治の総決算」を行うと、大見得を切りました。

しかし、その実態は、田中角栄による金と数による従来政治の踏襲に他ならず、「田中曽根内閣」「角影内閣」などと揶揄されました。外交においては、「日米両国は運命共同体」として、日米間のさらなる軍事協力強化を進めた中曽根康弘。アメリカの時の大統領、ドナルド・レーガン大統領と、お互いをロン、ヤスとミドルネームで呼び合う親密性を強調しました。内政においては、新自由主義的な経済政策で、日本専売公社、日本国有鉄道、日本電信電話公社の3公社を、それぞれJT、JR、NTTとして民営化。

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さらに、半官半民であった日本航空の民営化も推進しています。しかし、これら新自由主義的経済政策が結果的にバブルを引き起こし、現在の格差社会を招いたといえるでしょう。

中曽根康弘は小泉改革によって政界を引退させられた?!

中曽根康弘率いた内閣は、バブル期に向け、一見華やかにみえ、1986年の衆参同日選挙で大勝したものの、消費税の導入をほのめかした自らの失言で、支持率が一気に低下します。結局、中曽根康弘は、後継首相に竹下登を指名して、1987年、首相の座を降りました。続く1989年になると、影の実力者をもくろんでいた中曽根康弘でしたが、リクルート事件への関与が明るみに出て、自民党を離党します。

1991年、しぶとく復党を果たした中曽根康弘でしたが、2003年に、小泉純一郎首相から定年制導入のために引退を要請されると、ついに政界を引退し、その政治家生命を終えました。

中曽根康弘が98歳でやっとただの人に戻った日

中曽根康弘は、「政治家は選挙に出なければ、ただの人」との言葉もなんのその、政界引退後もかくしゃくとして、政治活動を続け、日本における憲法改正推進派の長老として君臨してきました。しかし、これは、まさに「死人に口なし」の効用からでしょう。21世紀も四半世紀を経た今、戦後政治の裏面を知る大物政治家や、影のフィクサーと呼ばれた人物は全て死に絶え、中曽根康弘が今何を語ったとしても、定かではありません。

中曽根康弘の政治家としての功罪は、もはや今後の歴史家の評価に委ねられる時を迎えています。そんな中曽根康弘に、最近、こんなニュースが伝えられました。中曽根康弘は、この7月をもって、SPの警護対象から外されていたと。SPの警護対象とは、総理大臣や、その経験者、衆参議院の議長、国務大臣や各政党の代表、国賓として来日した海外の要人など、「警察庁の警備局長が指定した」警護を必要とする国家的重要人物を示します。

中曽根康弘がその対象から外されたということは、もはや彼が、政治的な影響力を持たないと日本の警察がみなしたということです。「我が憲法を打ち立てて、国の礎築くべき歴史の責を果たさんと、決意は胸に満ち満てり」。これは、今から60年前、自民党の青年将校と呼ばれた中曽根康弘が、自主憲法作成を願って詠んだ歌です。しかし、憲法改正は、逆に、戦争を知らず戦後政治のしがらみもない、今を生きる人々が、じっくり考えて決めたほうがよいことなのかもしれません。

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