西本聖と江川卓の巨人軍ライバル伝説!不仲の真相は?

西本聖と江川卓の巨人軍ライバル伝説!不仲の真相は?

西本聖と江川卓の巨人軍ライバル伝説!互いの登板ゲームで「打たれろ!」と念じていた!

西本聖(にしもとたかし)は、プロ野球・巨人軍で、江川卓とともに2枚エースとして活躍した投手です。無名の存在からのし上がり、切れ味鋭いシュートを武器に、相手打者を牛耳った「反骨のエース」。沢村栄治を想起させる、左足を高く上げたピッチングフォームが記憶に残るファンも多いことでしょう。

江川卓との緊張感に満ちたライバル関係については、ファンの間で、半ば伝説化したエピソードも多く残されています。
入団当初、西本聖がライバル視していたのは定岡正二でしたが、後にライバルとみなしたのが江川卓。初めは、西本聖の一方的なライバル視でしたが、1981年の西本聖の沢村賞受賞以降は、2人の関係に変化が生まれます。先発投手にとって最高の名誉である沢村賞は、シーズン20勝を挙げるなど、投手タイトルを独占した江川卓が最有力候補でした。

しかし、ふたを開けてみれば、登板試合数以外は、江川卓にやや劣る西本聖が沢村賞の栄誉に輝いたのです。さまざまな疑問と反響を呼んだこの件を境目に、互いのライバル意識がぶつかり合うようになります。ブルペンでも互いに投げ込みをやめず、それぞれの登板ゲームでは「江川、打たれろ!」「西本、負けてしまえ!」と念じていたほどでした。

監督の藤田元司が開幕投手を競わせるなどの起用法を見せ、2人のライバル関係をあおったのも大きかったようです。そして、西本聖にとって、江川卓をしのぐ一世一代のチャンスとなったのが1983年の西武との日本シリーズ。逆転に次ぐ逆転で「シリーズ屈指の名勝負」と名高い伝説の熱闘で、投手陣の大黒柱となったのが西本聖。得意のシュートで西武打線をきりきり舞いさせ、2完投。第6戦9回裏で、日本一を目前にしてマウンドを託されたのも江川卓ではなく西本聖でした。

不調と肉離れがあったとはいえ、締めくくりは自分だと思っていた江川卓。バックも内心驚きを隠せない西本聖の起用でした。しかし、この起用が裏目に出て、西武打線に同点に追いつかれます。江川卓は延長10回にマウンドに立ちましたが、モチベーションの低下はどうにもならず、サヨナラ負けを喫しました。迎えた第7戦でもマウンドに上がった西本聖でしたが、粘りのピッチングも報われず力尽き、西武に日本一を許したのです。ライバル伝説が突然終わりを告げたのは、1987年11月の江川卓引退でした。それまでに、西本聖が江川卓を凌駕する機会は、ついに訪れることはありませんでした。

西本聖は、1956年6月27日生まれの60歳。愛媛県松山市出身で、松山商業高時代は甲子園出場経験がなく、注目される存在ではありませんでした。1974年のドラフト会議で、ドラフト外で長嶋茂雄新監督率いる巨人軍へ入団。甲子園のスターだった鹿児島実業高・定岡正二がドラフト1位でスポットライトを浴び、西本聖は、誰からも気に留められることのない存在でした。

しかし、野球への真剣な取り組みと、誰にも負けないハードな練習の積み重ねで頭角を現した西本聖は、2年目の1976年に1軍初登板。先発・リリーフいずれもOKというタフさで年々起用が増え、1980年には、プロ入り初の2桁勝利となる14勝を挙げます。翌シーズン、巨人軍の監督が長嶋茂雄から藤田元司に交替後、巨人軍投手陣の中心として先発で活躍しました。

西本聖と江川卓の関係の真相は不仲ではなかった?「本当のライバル」と認め合っていた!

西本聖と江川卓のライバル関係は尾ひれがつき、いつしか「2人は互いに口も利かないほどの不仲だった」と語られるようになります。本当に2人は不仲だったのでしょうか?真相を知る手掛かりとして、2人とともに巨人投手陣の中心だった定岡正二の証言を引いてみました。「僕と西本は “卓ちゃん”と呼んでいたほどで、不仲ではなかった。キャンプで、実は(江川卓は)好人物だと知り、打ち解けるのも早かった」と週刊誌の取材に答えています。

西本聖もそのことを認めており、不仲ではなかったことが分かります。不仲説を強めるきっかけとなったのが、1981年の西本聖の沢村賞受賞でした。それ以降、「エースは1人。2人もエースはいらない」と火花を散らす関係となったのは事実です。しかし、そのライバル関係にピリオドが打たれたのが1987年11月、江川卓の現役引退表明でした。その会見をテレビで見た西本聖は、「なぜ引退するんだ!俺の目標はどうなるんだ!」と、尋常ではない落胆ぶりだったそうです。

モチベーションを失った西本聖は、翌1988年にわずか4勝に終わる低迷ぶり。そして、月日は経って2人の対談が実現しました。過去の懐かしいエピソードをはさみ、最後に「オレをどう思ってた?」とズバリ切り込む西本聖。「本当のライバルだったよ。ニシがいなかったら、オレはとうの昔に手抜きしてたさ」と躊躇なく認めた江川卓。対談からは、お互いにライバルとして認め合っていたことが分かります。やはりこの2人には、不仲という表現は似合わないようです。

西本聖の妻を襲ったガス爆発事故、引退試合のエピソードが泣ける!

西本聖の妻がガス爆発事故で重傷!逆境に強いメンタルで大活躍!

西本聖は、1981年のシーズン、江川卓とともに巨人投手陣の両輪として活躍していました。開幕投手の重責を担った西本聖の、チームリーグ優勝と日本一への貢献度は非常に高いものでした。しかし、西本聖の大活躍の原動力は、重傷を負った妻へささげる思いだったのです。

藤田元司新監督のもと、来たるシーズン開幕へ向けて、海外キャンプに臨んだ巨人軍。西本聖もその一員として、調整に余念のない日々を送っていました。そんな中、彼の元に悲報が舞い込みます。留守を預けていた妻が、自宅でガス爆発事故に襲われたのです。

全身のほぼ7割の大やけどで重傷を負うという事態に、西本聖は、キャンプ地から、急ぎ帰国の途につきます。重傷の妻を見舞った西本聖は、「俺が勝って必ず妻に勇気を与えてやる」と固く心に誓いました。しかし、キャンプでの調整も万全ではなく、周囲も「巨人の開幕投手は江川卓で決まりだろう」と見る向きが大勢を占めました。ところが、中日との開幕ゲームでアナウンスされたのは「ピッチャー、西本」。

逆境に強いメンタルを持つ西本聖にマウンドを預けるという、藤田元司監督らしい起用劇でした。期待に応えて、見事に完投勝利を飾った西本聖は、ウイニングボールを手にして病床の妻を見舞ったそうです。この年の西本聖のシーズンの記録は、34試合に登板して18勝12敗、防御率2.58と素晴らしい活躍ぶり。続く日本ハムとの日本シリーズでも、2勝を挙げてMVPに輝きました。

第2戦で日本シリーズ初の毎回奪三振の快投を演じ、第5戦は13安打を浴びながらも完封。この活躍は、プロ入りして上り調子にあった実力に加え、重傷の妻への思いが原動力となっていたことも支えとなっていました。現役引退から年数を経ても、お互いに支え合う西本聖の夫婦関係は睦まじいようです。

西本聖の同期・定岡正二が企画した引退試合が泣かせる!長嶋茂雄がサプライズ代打に!

西本聖は、波瀾万丈の野球人生を送りましたが、その引退試合もまた感動的なものでした。まずは、西本聖が引退まで歩んだ道のりを振り返ります。1988年こそ4勝に終わったものの、1989年に中日へ移籍し心機一転した西本聖は、20勝を挙げて、初の最多勝に輝きます。うち8勝を古巣巨人から挙げたもので、健在ぶりを見事に見せつけました。

しかし、それ以降は、徐々に成績を落としていきます。翌1990年にも11勝しますが、1991年は椎間板ヘルニアの影響で低迷した西本聖。手術を受け、復帰した1992年もわずか1勝で自由契約に。1993年オリックス入りして先発で5勝を挙げながら、わずか1シーズンの在籍で退団という流転の野球人生を歩みます。

そんな西本聖に手を差し伸べたのが、長嶋茂雄が監督に復帰した巨人軍です。1994年に里帰りを果たしたものの、アピールするチャンスは皆無に等しく、ペナントレースでも一軍登板機会もなく現役引退という、かつてのエースには寂しい結末に。登板チャンスがなかったのは、当時の投手コーチが西本聖を戦力外とみなしていたためと伝えられています。

加えて、中日とのデッドヒートが最終戦までもつれこみ、衰え著しかった西本聖に引退登板させる余裕がなかったのも事実です。長嶋茂雄が「国民的行事」と形容した最終戦「10.8決戦」で、巨人がようやく勝利の美酒を味わいますが、その影響で、かつての功労者・西本聖への花道が見送りされます。

しかし、野球の神は西本聖を見捨てず、引退試合が行われることに。それも、プロ入り同期生で、親友でもある定岡正二が企画したというから泣かせるではありませんか。場所は、巨人軍の選手たちの汗と涙がしみ込んだ思い出の地、多摩川グラウンド。試合は、西本聖のチームが、定岡正二率いる「サダーズ」と対戦するという形式。桑田真澄や山本昌、中村武志、立浪和義、平井正史ら、当時の現役選手が有志で西本チームに参加。

さらに、これ以上ない豪華ゲストが参加したのです。それは、西本聖のプロ入り時と現役最後に監督だった長嶋茂雄。当初は始球式だけの予定でしたが、最終回にサプライズで代打として登場し、グラウンドを大いに沸かせたのはさすが長嶋茂雄。マウンドに立つ西本聖も、プロ入り時と現役最後に監督だった長嶋茂雄を打席に迎え、感慨はひとしおだったに違いありません。西本聖にとって、これ以上ないプロ生活の幕引きといえるでしょう。

西本聖が鍛え抜かれた思い出の伊東で江川卓と対談!対照的な生き様の2人のぶつかり合い!

西本聖と江川卓との確執が、7月27日にTBS系で放送された「緊急特番!今夜限定…スポーツ界を揺るがした4大伝説」で取り上げられました。これまでお互いに腹を割って語り合う機会がなかった巨人軍投手陣の両輪。その2人が語り合うのは、静岡県・伊東。1979年に巨人軍が秋季キャンプを張り、そのハードなメニューで「地獄の伊東キャンプ」として今も語り継がれる思い出の場所です。

そのシーズンは、屈辱的な5位という結果に終わった巨人軍。V奪回には、次代の柱となる若手選手の育成を急がなければならない状況でした。シーズン終了後の10月28日から11月22日まで、伊東スタジアムで行われた秋季キャンプは、過酷を極める練習メニューで、選手たちは、疲れ切ってろくに口もきけなかったといわれます。その疲労ぶりは、階段を上り下りするにも手すりに頼らなければならなかったというエピソードが伝わっているほどです。

しかし、この地獄の伊東キャンプで徹底的にしごき抜かれた効果は大きく、巨人軍ののちの日本一奪回は、このときの底上げが大きかったと評価されるほどです。西本聖と江川卓もこのキャンプで鍛え抜かれ、連日300球~400球の投げ込みを課されたといわれています。

そして、チーム内で、「絶対に負けない」とぶつかり合うようになっていきます。それは、不仲という言葉ではくくれない、次元の高い闘いでした。「江川さんがいたからここまできた」と、プロ人生を全うした西本聖。「ニシがいなければ手抜きしてたよ」と認めた江川卓。生き様は対照的ですが、お互いが認め合っていたという事実に、清々しさだけが残ります。

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