野茂英雄は日本人メジャーリーガー先駆者!高校時代は無名だった!

野茂英雄は日本人メジャーリーガー先駆者!高校時代は無名だった!出典:http://www.afpbb.com

野茂英雄は日本人メジャーリーガー先駆者!殿堂入りは当たり前!

野茂英雄は日本人メジャーリーガーのパイオニアだった!「トルネード投法」で全米を席巻し新人王に!

元メジャーリーガーの野茂英雄は、「トルネード(竜巻)投法」からのストレートとフォークボールで、三振の山を築いた伝説のピッチャーです。日本人メジャーリーガーへの道を切り開いた先駆者としての偉大な足跡は、誰もが認めるところです。しかし、野茂英雄が初めての日本人メジャーリーガーではありません。


サンフランシスコ・ジャイアンツでプレーした村上雅則以来31年ぶり2人目です。近鉄バファローズ時代は、4年連続最多勝&最多奪三振のタイトルを獲得した豪腕でしたが、積もり重なった球団との確執などが原因で渡米し、1995年に、単身メジャーリーグへ挑戦します。年俸980万円になってまで、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約しました。当時は、メジャーリーグが長期ストライキ中でファンが辟易していたところへ、突然日本から現れた「トルネード投法」が全米を席巻しました。

メジャー1年目で先発ローテーション入りを果たした野茂英雄は、13勝を記録。奪三振236個で、最多奪三振タイトルを獲得し、チームの地区優勝にも貢献しています。そのシーズンの新人王に選出されたのも当然でしょう。野茂英雄のインパクトは絶大で、「NOMOマニア」という言葉も誕生。彼が三振を奪うたびに「K」ボードを掲げるファンの姿がスタンドを埋め尽くしました。

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その後、野茂英雄は、メジャーリーグで12年間プレーし、7球団に在籍。2度のノーヒットノーランを達成するなど、計123勝をマーク。日本人メジャーリーガーのパイオニアとして、後進への道を切り開いた功績は今も燦然と輝いています。

野茂英雄の日本野球殿堂入りは先駆者として当たり前!アメリカでも野球殿堂入り候補だった!

日米両球界で活躍した野茂英雄ですが、その功績をたたえられて、日本では見事に野球殿堂入りを果たしました。2013年に競技者表彰候補としてその名が挙がり、2014年1月17日に殿堂入りしたことが明らかにされています。2008年に引退してから、6年を待たずしての殿堂入り。しかも、表彰候補1年目にして野球殿堂入りという栄誉に輝いたのは、ヴィクトル・スタルヒン、王貞治といった錚々たる面々に次ぐ史上3人目でした。

いかに彼の現役時代の実績が評価されているかがうかがい知れます。一方、野茂英雄は、アメリカでも野球殿堂入り候補となったことがありました。しかしふたを開けてみれば、わずか6票で落選。アメリカでの野球殿堂入りが実現していれば、日本人プレーヤーとして初の栄誉、しかも日米両球界で野球殿堂入りを達成したことになります。

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それを考えると非常に惜しいことですが、野茂英雄でさえも入ることができなかった米野球殿堂入りは、野球人にとって最高峰の名誉ということでしょう。

野茂英雄の高校時代は無名選手だった!NOMOベースボールクラブの現在は?

野茂英雄は高校時代は無名の存在だった!ドラフト史上最多8球団が競合指名!

メジャーリーガーとして大成功した野茂英雄ですが、高校時代までは全く無名の選手でした。それが一転して大投手として日米を席巻したのですから、人生は分からないものです。野茂英雄は、1968年8月31日生まれの48歳。大阪府大阪市港区出身で、ニックネームは「ドクターK」や「The Tornado」です。日本球界での通算成績は、実働5年間で、139試合に登板し、78勝46敗1セーブ防御率3.15、投球回数1051と1/3回で、1204奪三振、奪三振率は10.31。メジャーリーグでは、12年間で、323試合登板し123勝109敗、防御率4.24。投球回数1976と1/3回で1918奪三振、奪三振率8.73を記録しています。

日米両球界で合計201勝を挙げたことも凄いですが、その奪三振率の高さにも驚かされます。野茂英雄は、すでに小・中学校時代から「トルネード投法」の原型で投げていましたが、名門高校野球部のセレクションを数々受けて、いずれも不合格でした。大阪府立成城工業高校(現・大阪府立成城高校)に進学すると、高校2年からエースとなり、1985年の全国高校野球選手権大阪大会では、2回戦で完全試合を達成。3年でベスト16進出などの成績を残しながら、甲子園出場には手が届かず、全国的には無名のままでした。

そんな野茂英雄が一躍名を上げたのが社会人野球です。新日本製鐵堺へ入社した野茂英雄は、フォークボールを習得し、2年目で都市対抗野球出場を果たすなどの実績を積み、日本代表に選出されるなど頭角を現します。1988年のソウルオリンピックでは、石井丈裕(プリンスホテル→西武→日本ハムほか)や、潮崎哲也(松下電器→西武)らと中心投手として銀メダル獲得に貢献しました。

1989年のドラフト会議では、史上最多8球団が野茂英雄の1位指名で競合し、抽選の結果で近鉄バファローズが指名権を獲得しています。ゴールデンルーキーとしてプロ入りした1990年は18勝8敗、防御率2.91、奪三振287個で、投手タイトル独占し、MVPや沢村賞など数々の栄誉にも輝く大活躍を演じました。その後も、4年連続最多勝や、最多奪三振タイトルを得るなど球界のエースに登り詰めながら、1995年に単身メジャーリーグ挑戦した野茂英雄。

忍び寄る衰えと闘いながら、最後までメジャーリーガーとして現役を全うしています。かつての無名選手がメジャーリーガーにのし上がったヒストリーを見ると、とてもたくましく痛快な人生だったことが分かります。

野茂英雄の設立した「NOMOベースボールクラブ」は現在NPO法人に!クラブチーム日本一の快挙達成!

「NOMOベースボールクラブ」をご存じでしょうか?これは、野茂英雄が自らの名を冠して設立したクラブチームです。現在はNPO法人として活動しています。「NOMOベースボールクラブ」設立に至っには、当時の社会人野球の情勢も念頭に置いておかなければなりません。1994年、社会人野球チームの新日本製鐵堺が休部となります。理由は、深刻な鉄鋼不振によるものです。

同様の動きは社会人野球全体に広がり、歴史ある名門チームが相次いで廃部するという事態に陥ります。新日本製鐵堺OBでもある野茂英雄は、この事態を真剣に受け止め、若い野球選手たちの受け皿となる団体設立のために尽力しました。その団体が、彼がオーナーを務める「NOMOベースボールクラブ」でした。活動資金の大半は野茂英雄の負担で賄われるほか、会員からの会費や寄付金も充てられています。

2003年に、新日鐵堺が活動していた大阪府堺市に設立され、翌2004年に社会人野球の全国組織「日本野球連盟」に加盟。2005年には都市対抗野球大会に初出場し、全日本クラブ選手権でクラブチーム日本一に輝くという快挙を達成しました。2013年1月からは、本拠地を兵庫県豊岡市に移転。本拠地には全国的に有名な城崎温泉があり、所属選手は、温泉旅館組合に加盟する旅館やホテルで勤務し、寮で生活する日々を送っています。

温泉街で大規模な火災が発生した直後には、選手たちも復旧作業に当たりました。2015年に社会人野球チーム初のNPO法人の認定を受け現在に至る「NOMOベースボールクラブ」の目標は、プロ野球へ選手を送り出すことです。実際に、クラブ在籍選手がプロ野球へ進んだ実績もあります。野茂英雄のように世界的に名を成す選手が「NOMOベースボールクラブ」から現れることを期待したいものです。

野茂英雄が米メディア「野球史で最も重要な40人」にランクイン!日本人メジャーリーガーのパイオニアとして高評価!

野茂英雄が、野球人として、アメリカでも高く評価されていることを示す1つのニュースがあります。それは、2016年11月のこと。アメリカのスポーツ専門メディア「スポーティング・ニュース」で、「ベースボールの歴史で最も重要な40人」という特集記事が組まれました。約150年の歴史を持つメジャーリーグにおいて、もっとも重要な役割を果たした人物をランキング形式で選出します。

「野球の神様」ベーブ・ルースを筆頭に、ジャッキー・ロビンソンら名プレーヤーや、初代コミッショナーのケネソー・マウンテン・ランディスらが上位を占める中、野茂英雄が40位中37位でランクイン。メジャー通算3000本安打を達成したイチローすら選から漏れた中での堂々のランキング入りはとてつもない偉業です。ボストン・レッドソックスやシカゴ・カブスを、強化責任者として世界一に導いたセオ・エプスタインすら40位となる中、野茂英雄が37位という事実は、アメリカ球界での高い評価を示していると言えるでしょう。

これこそ、「NOMO」が、今もなおアメリカでも高い評価を受けている証に他なりません。記事は、「イチロー、マツイ(松井秀喜)、ダルビッシュの水先案内人」とその功績を高く評価。村上雅則以来絶えて久しかった日本人メジャーリーガーとして、パイオニアの役割を果たしたことを絶賛しました。今や日本人選手がメジャーリーグでプレーすることも珍しくなりましたが、野茂英雄が大きく貢献していることは間違いありません。日米両球界の架け橋として、今後も意義深い活動を続けていくことでしょう。

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