真田昌幸のチート過ぎる生涯と最期!家系図を検証!

真田昌幸のチート過ぎる生涯と最期!家系図を検証!

真田昌幸のチート過ぎる生涯!最期は生きる気力を失って病死した?

真田昌幸とは、戦国時代から江戸時代初期に、信濃を中心にその名を轟かせた武将です。巧妙な策略と、大軍を目の前にしても屈しない精神により、あの徳川家康をも恐れさせた知将。そんな真田昌幸の生涯がチート過ぎると、今ネットで話題になっています。
真田昌幸は、「表裏比興の者」と、石田三成や増田長盛から評されたといわれています。「比興」は「卑怯」ともいい、「くわせもの」ということで、武将にとっては褒め言葉だったとのこと。真田昌幸率いる真田家は、兵力の少ない勢力であるにも関わらず、徳川の大軍を相手に、二度も勝利したことがあります。徳川の大軍が上田城に攻めてきた時、真田昌幸は、類まれなる状況判断力と、巧妙な策略により、多くの戦国大名や武将の予想を裏切る戦功を上げたのです。真田一族の存続のために、時には、かつて同士だった者を利用したこともあります。
そんなチート武将と名高い真田昌幸でしたが、少ない兵力での戦にはやはり限界があり、関ヶ原の戦いでは、圧倒的な兵力を誇る徳川軍に降伏。その後は配流となり、高野山、そして九度山へと移り、残りの生涯を過ごしました。流人となった後の真田昌幸は、気力がなく、病気がちだったそうで、最期は病死で静かにこの世を去ったのだとか。一族を守るために駆け抜けてきた真田昌幸。九度山配流で家族から引き離され、生きる希望を失ってしまったのかもしれません。

真田昌幸の家系図を徹底検証!絶滅の危機に瀕するも奇跡の再興を遂げた!

真田昌幸は、徳川家康が恐れるあまりに、名を聞くだけで手が震え出すと言われるほどの名将でした。素晴らしい知恵と勇気を合わせ持つ真田昌幸の血を受け継ぐ子孫は、現代にもいるのでしょうか?
真田家の家系図を検証してみると、真田昌幸には、真田信繁(幸村)、真田信之という2人の息子がいました。兄・真田信之は、関ヶ原の戦いで勝ち組となった東軍・徳川の臣下として、松代藩の藩祖となり、明治維新まで本家真田家の血を遺しています。しかし、真田信繁(幸村)は、大坂夏の陣で討ち取られ死亡。ということは、真田信繁(幸村)の子孫は絶滅してしまったのか!?というと、そんなことはなかったようです。真田信繁(幸村)には11人の子供がおり、そのうちの次男と娘は、なんと敵方である伊達政宗により保護されています。後に、娘は、伊達政宗の重臣・片倉小十郎の側室に、次男は伊達家の家臣となり、「仙台真田家」として再興したそうです。
現在も仙台真田家は受け継がれて、真田信繁から数えて14代目当主にあたる真田徹という方が、「真田幸村の真実の姿」を世間に伝えるべく、テレビ出演、歴史雑誌、観光イベントや公演など、全国を飛び回る日々を送っているとのことです。

真田昌幸NHK「名将の采配」の内容とは?名言はなかなか男前!?

真田昌幸がNHK歴史番組「名将の采配」で取り上げられる!気になるその内容とは?

「名将の采配」とは、2009年にNHKで放送された歴史ドキュメンタリー番組で、劣勢からの大逆転劇を見せた戦いを取り上げ、ジオラマを使って詳しく解説するという内容です。NHKでは、大河ドラマやドキュメンタリー番組などで、日本の歴史に残るさまざまな人物や出来事を取り上げてきましたが、「名将の采配」もその一つ。本番組では、真田昌幸を取り上げた回がありました。それは、第5回「”懐の深さ”が勝利のカギ」!
真田昌幸の名を広く知らしめた戦いといえば、ずばり「上田合戦」です。1585年、徳川家康は、真田昌幸の居城・上田城へと、兵7000人で攻め入りました。一方、真田昌幸の兵はわずか2000人。誰が見ても、真田方の劣勢は明らかでした。しかし、真田昌幸は、この状況に動じず、上田城の地形や構造を活かした罠を仕掛けたり、城下町に柵を張りめぐらせて迷路にしたり、城下住人の力を借りて城下町に火を放ったりなど、さまざまな策略を巡らすことにより、徳川軍に約2000人の死傷者を出し、見事勝利を収めました。まさに奇跡の大逆転!これは真田昌幸の冷静な状況判断と機転、そして、劣勢でも動じない不屈の精神の成せるわざといえるでしょう。

真田昌幸の名言はなかなか男前!一族を守ろうとする思いの強さが見える!

真田昌幸は、一体どのような名言を残しているのでしょうか?策士として名高い真田昌幸ですが、なかなかに男前な名言の一部をご紹介します。
「たとえ錦を着ても、心が愚かならば役に立たない」。これは、自身の刀の柄に巻かれた木綿の紐を、ある人物に笑われた時に、真田昌幸が言い放った名言です。どんなに見た目が立派であったとしても、適当に作ったり、手入れを怠ったりすれば、その刀は肝心な時に役に立たない代物となってしまいます。それは、人間も刀も同じであることを表している言葉です。刀に巻いていた紐は、真田昌幸が自分で工夫して打ったもので、とても丈夫でしっかりとしています。いつ何があっても一族を守れるよう、真田昌幸は、常に刀の手入れに気を配っていたことがうかがえます。
「さてもさても口惜しきかな。内府(家康)をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」。これは、関ヶ原の戦いにおいて西軍が敗北したことで、真田昌幸の配流処分が決定し、息子の真田信之との別れ際に放った名言。悔しさが滲み出る言葉ですが、徳川の大軍を前にして、怯むどころか、切り崩してやろうという勇猛な思いを抱いていたこと、そして、一族を存続させようという家督としての責任感がうかがえる言葉です。

真田昌幸被害者の会がツイッターで今話題!春日信達暗殺事件は自業自得の結果?

真田昌幸演じる草刈正雄の好演もあって、2016年NHK大河ドラマ「真田丸」は、放送開始から15%以上という視聴率を維持し、毎週多くの人が楽しみにしているドラマの一つとなりました。そんな中、ツイッターでは、「真田昌幸被害者の会」という会があり、話題となっています。
「真田昌幸被害者の会」とは、真田昌幸の陰謀により被害を受けた者が入会するというもの。会員はどんどん増えており、視聴者も毎週、「今度は誰が被害者になるのか」と、ハラハラドキドキしながらドラマを楽しんでいるようです。「真田昌幸被害者の会」が盛り上がってきたのは、真田昌幸による春日信達暗殺事件からでした。
真田昌幸と春日信達は、かつては武田家の家臣同士。本能寺の変後、真田昌幸は北条家、春日信達は上杉家の家臣となりましたが、春日信達には以前ほどの力はなく、真田昌幸はこれを利用しようと企みます。真田昌幸は、上杉方に残っていた弟・真田信尹と息子・真田信繁に、春日信達を北条家に寝返らせるよう指示。真田信尹と真田信繁は、さまざまな手を使い、春日信達に上杉家を裏切らせます。そして、北条家についた春日信達でしたが、北条氏直からの「海津城を与える」という起請文が届いた後、真田信尹により暗殺。その後、春日信達が北条家と通じていたと真田信尹から聞いた上杉景勝は、春日信達を磔(はりつけ)にし、攻め込んできた北条家への見せしめにしました。これを見た北条家は、調略がバレてしまったと慌てて軍を引き上げる結果に。真田昌幸は、戦わずして、自身の領地から北条家を追い出すことに成功したのです。
一族を存続させるためなら何でも利用する、そんな真田昌幸と真田信尹の考えに、いまいち心が付いていけない……そんな真田信繁に、出浦昌相は「信達にも非があった。あやつは恩ある上杉を不服に思い、己の意志で裏切った。自業自得とは思わんか」と告げます。自業自得とは、「自らの行いの結果は自らが受ける」ということ。真田家にそそのかされたとはいえ、春日信達は、自分の意志で上杉家を裏切り、自身を滅ぼす結果を招いたのです。もちろん、この暗殺事件は、真田昌幸の策略による結果ではありますが、たとえこの策略がなかったとしても、春日信達は、別の形でその報いを受けていたのではないでしょうか。
それにしても、真田昌幸の策略は、人間の心理を上手いことついており、実に巧妙です。来週また一人「真田昌幸被害者の会」の入会者が増えるのかもしれません。

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