篠塚和典の打撃センスにイチローも憧れた!現役時代と生涯成績は?

篠塚和典の打撃センスにイチローも憧れた!現役時代と生涯成績は?

篠塚和典の打撃センスはイチローのプレースタイルに大きな影響を与えた?

篠塚和典は、1980年代の巨人打線の中で、巧打者の名を欲しいままにした名バッターです。芸術的なバッティングと、華麗な二塁守備は、ファンを魅了してやみません。実は、本人が公言したわけではありませんが、あのイチローも篠塚和典の打撃センスに憧れていた1人だと伝えられています。イチローが使っているバットは、篠塚和典が使っていた「篠塚モデル」がベースです。そのことを念頭にイチローのプレースタイルを見れば、篠塚和典に重なるところが少なからず見受けられます。

イレギュラーな体勢から広角にヒットを量産するその打法。苦手なコースもなく、時にはワンバウンドしそうなボール球すらヒットにする天才的なバットコントロール。何から何まで、イチローには、篠塚和典のイメージがかぶります。「詰まって打つ練習もしていた」という篠塚和典の根本には、「すべてのボールを理想的に打ち返すことは不可能」という考えがありました。

だからこそ、わざと崩れた体勢で打ったり、芯を外したりして練習しておけば、試合でも難しいボールへの対応がしやすくなると考えていたといいます。こうした部分もまた、イチローもかなり参考にしたのではないでしょうか。2009年には、篠塚和典が、WBC日本代表に打撃コーチとして参加。主力メンバーにイチローがいたことにも、強い縁を感じさせられます。

篠塚和典の生涯成績は打率3割4厘!射程圏内だった2000本安打は腰痛で幻に?

篠塚和典は、1957年7月16日生まれで、東京都豊島区生まれの千葉県銚子市育ち。1992年シーズン途中までの登録名は「篠塚利夫」(しのづかとしお)で、右投げ左打ちです。生涯成績は、実働18年で、1651試合に出場。5572打数1696安打92本塁打628打点、通算打率3割4厘を残しています。

首位打者タイトルを2回獲得しているほか、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回受賞。通算で3割を超える打率を残していることからも、その卓越した打撃力がうかがい知れます。銚子商業高校時代は、4番打者として春夏連続で甲子園出場し、将来を嘱望されますが、肋膜炎を患って野球生命のピンチに立たされました。しかし、その資質を高く評価する長嶋茂雄の要望もあり、1975年のドラフト会議で、巨人の1位指名で入団。それまでセカンドのレギュラーだった土井正三の後継者と位置付けられ、1979年オフには、「地獄」と語り草の伊東キャンプで鍛え抜かれます。

1980年に115試合出場すると、1軍戦力として定着の足掛かりをつかみ、翌1981年当初こそは原辰徳のセカンド起用で出番に恵まれなかったものの、中畑清の故障もあって、セカンドのレギュラーに定着しました。この年は、憧れの藤田平としのぎを削る首位打者争いで、1厘差でタイトルを逃すものの、キャリアハイの3割5分7厘で日本一奪回にも貢献。その後も、芸術的なバッティングで、巨人打線の中心選手として君臨しました。

シーズン打率は、3割以上を、5年連続も含め7回も記録するなど首位打者争いの常連だった篠塚和典。しかし、意外にもタイトル獲得はわずか2回。また、バッティング同様に、セカンド守備も高く評価されていた篠塚和典は、大胆かつ華麗な職人的守備でファンを沸かせました。しかし、腰痛を抱えていたため、シーズンが佳境に入る夏場に欠場することが多く、現役時代を通じて年間フル出場はありません。

射程圏内だった2000本安打達成が幻になったのも、腰痛が原因でした。1990年以降は腰痛が悪化し、出場試合数が100試合を切るなど出番が激減します。1994年はとうとう57試合出場に終わり、チームの日本一奪回を見届ける形で現役を引退。その後は、巨人でコーチを歴任したり、野球評論家として活動しています。

篠塚和典は女性問題で離婚?改名の理由は何だったの?

篠塚和典は女性問題が噂になるほどプレイボーイだった!離婚はたった1回!

篠塚和典は、「芸術的なバッティングと華麗な守備」がトレードマークですが、現役当時は、プレイボーイとも噂されていました。優し気な顔立ちと、細身の体型でアイビールックを着こなし、女性ファンからの人気も絶大だった篠塚和典。コワモテの風貌にパンチパーマ、ど派手なセーターを着こんで、手にはセカンドバッグという、何とも近寄りにくいファッションが当たり前だったプロ野球界に変革をもたらしたのが、誰あろう篠塚和典でした。

そういったこともあってか、女性関係には事欠かなかったようで、たび重なる女性問題が原因で離婚を繰り返したとも伝えられていますが、実際に離婚したのは1回のみです。「相当派手に遊んでいた」という風評ばかり残っていますが、今となっては、具体的な女性問題の情報は残されていません。

むしろ、裏社会との黒いつながりの噂のほうが具体的です。巨人コーチ時代の1999年には、「車庫飛ばし」容疑で経営者が逮捕された自動車販売会社の役員だったことから、篠塚和典は家宅捜索を受けています。この自動車販売会社が暴力団の関係会社とされていたため、篠塚和典と裏社会の交友関係も疑われました。結局は年内謹慎で落ち着きましたが、黒い交際を疑われたことは、脇が甘かったと言われても仕方ありません。

篠塚和典改名の理由は気分転換か?前年にはトレード志願発言で罰金に!

篠塚和典は、1982年シーズン途中に、それまでの登録名「篠塚利夫」から改名しています。ファンの間では、「篠塚和典」への改名に戸惑いを覚える声も少なからず聞かれました。やはり、全盛時に「篠塚利夫」として打ちまくったイメージが強く残っていたからでしょう。これほど認知されているのに、なぜ「篠塚利夫」から「篠塚和典」へ改名したのでしょうか?その理由は、持病の腰痛が慢性化したことが大きかったようです。

座禅に凝っていた篠塚和典は、寺の住職から、「腰痛が慢性化しているのは、名前が災いしている」という意味のことを指摘されたとか。当時の篠塚和典といえば、腰痛が悪化の一途をたどり、出場試合数も減少。スターティングメンバーから外れることも多くなっていました。改名前の1991年には、トレード志願ともとれる発言をして、首脳陣批判として球団から罰金処分に。同年オフには、実際にロッテへのトレードがささやかれもしました。

ロッテは、本拠地を千葉へ移転することが決定していたため、地元の著名選手である篠塚和典の獲得は、戦略上考えられることです。トレードは噂に終わり、篠塚和典は巨人で現役を全うすることになりますが、結局、1992年はレギュラー定着後ワーストの67試合出場に終わった篠塚和典。改名の効果はほとんど見られず、1994年まで成績を挽回できないまま、現役を退きました。

篠塚和典の確実かつ華麗な守備力!痛快なダブルプレーは河埜和正との阿吽の呼吸から生まれた

篠塚和典は芸術的な打撃が語り草ですが、華麗に魅せたセカンド守備も忘れてはいけません。1980年代の巨人軍で、河埜和正(こうのかずまさ)と二遊間コンビを形成していた篠塚和典は、打撃同様に守備でもファンを大いに沸かせ、ダイヤモンドグラブ賞を4回も獲得しました。名手の誉れ高い篠塚和典がセカンドを守るようになったのは、プロ入り後のことです。セカンドは、内野の司令塔でありながらも地味な印象のポジション。篠塚和典も、当初は「やりたくない」と思っていたといいます。

しかし、スライディングしてくるランナーへの対処や、緩いゴロでのダブルプレーなどで、だんだんとセカンド守備に面白さを感じるように。二遊間の華は、何といってもダブルプレーに尽きますが、確実かつ華麗にダブルプレーを決めてこそ、優れた二遊間だと語る篠塚和典。ダブルプレーは、相手のチャンスを一気に摘み取ることになり、これほど痛快なことがないからです。

ここで大事なのは、ショートとの阿吽の呼吸です。河埜和正とのコンビが多かった篠塚和典は、どちらがベースカバーに入るかを、アイコンタクトで決めていたといいます。ここに、バッターが右打ちか左打ちか、キャッチャーのミットが内角寄りか外角寄りかなどを基準にして、変幻自在のコンビネーションが生まれました。大胆なポジショニングも多かった篠塚和典ですが、これは、ほとんど自らの判断によるものでした。

非常に精度が高いことで定評がありましたが、ベンチから任せてもらえるようになったのは、レギュラー定着して5~6年目。「守りの選手が地味という風潮を変えたかった」という篠塚和典のプレーは、その言葉通り、誰もが「華麗そのものだった」と認めるところとなりました。

関連記事

ページ上部へ戻る