鈴木啓示の現役時代の成績や年俸、球速は?近鉄監督時代の野茂英雄との確執とは

鈴木啓示の現役時代の成績や年俸、球速は?ミスター・バッファローの伝説エピソード!

鈴木啓示の現役時代は通算317勝の大エース!通算560被本塁打はメジャー記録すら凌駕する世界記録!

元近鉄バファローズの大エース鈴木啓示(すずきけいし)は、パ・リーグを代表するサウスポーとして君臨し、数々の大記録を残したレジェンドです。今の若い野球ファンにはなじみが薄いかも知れませんが、「草魂」のフレーズをご存じの方もいるかもしれません。

鈴木啓示は、1947年9月28日生まれで、兵庫県西脇市出身。身長181cm、体重86kg、左投げ左打ちです。通算成績は、703試合に登板して317勝238敗2セーブ、防御率3.11。勝利数317は歴代4位で、4600と1/3回を投げ、先発577試合中で340完投、74完封、78無四球試合、3061奪三振しています。獲得タイトルは、最多勝利3回、最優秀防御率と最高勝率がそれぞれ1回ずつ、最多奪三振8回(当時は連盟表彰対象外)です。さらに、ノーヒットノーランも2回達成しています。

年俸は最高で2000万円台と推定されていますが、今の年俸レベルならば3億円は軽く手にしていたことでしょう。もともと右利きでしたが、4歳で右腕を骨折した際に父親から左利きに矯正された鈴木啓示は、まさに「リアル星飛雄馬」。兵庫県にある育英高校ではエースとして活躍し、1965年春にセンバツ出場しました。

本人は阪神タイガース入りを熱望していましたが、近鉄からドラフト2位指名を受けてプロ入りすることになります。入団後すぐに本格派サウスポーとして頭角を現した鈴木啓示は、瞬く間にパ・リーグを代表するエースに成長。若い頃は、球速150kmを優に超えていたとも言われるストレートを主体に、プロ入り2年目の1967年から6年連続で奪三振王に輝きました。

しかし、良きライバルだった江夏豊(当時阪神)と並び称されるドクターKは、負けん気が強く決して逃げないために被本塁打が多かったのも事実で、通算560被本塁打は歴代ワースト記録です。これはメジャー記録511本すら凌駕する世界記録!本来は不名誉なはずですが、本人は、「どんな強打者にも真っ向勝負で挑んだゆえの勲章」と誇りにしています。

後に、監督に就任した西本幸雄(にしもとゆきお)と出会い、ストレート主体の投球からモデルチェンジした鈴木啓示は、コントロールを磨いて、歴代トップの78無四球もマークしました。とはいえ、ストレート勝負と先発完投にこだわり続ける姿勢は終始変わらず、1985年シーズン途中に引退表明。鈴木啓示を最後に、日本球界からは300勝投手は登場していません。

鈴木啓示ミスター・バッファローの伝説エピソード!

エースを張るほどのピッチャーともなれば、お山の大将といったイメージがつきまといます。ミスター・バッファローこと鈴木啓示もその例に漏れず、頑固一徹を偲ばせる数々の伝説的なエピソードを残しています。入団していきなり2桁勝利を挙げたと思いきや、合宿を出て阪急沿線に引っ越した鈴木啓示。負け癖が染みついたチームメイトに疑問を感じ、「このまま合宿に居続けたら、自分も染まり切ってしまう」と危機感を感じての決断でした。

しかし、まだ若い鈴木啓示が合宿を出た上、商売仇である阪急沿線に引っ越したのですから、当然反感も買います。それでも、当人はどこ吹く風。裏を返せば、それほど野球にストイックに取り組んでいたという証明でしょう。それだけに、「近鉄の鈴木といえばワシや」という強烈な自負があったようで、1983年に鈴木康二朗がヤクルトから移籍してきた際には「ワシは今までどおり鈴木でいい。あっちを鈴木康と表記すれば済むことや」と発言したとか。

新聞やスコアボードなどでは、同姓の選手が複数いた場合、混同されないように名前を略して付けるのが当たり前ですが、鈴木啓示には屈辱だったようです。とはいえ、球団がそれを認めることはなく、「鈴木啓」表記が使用されていました……。西本幸雄が近鉄の監督に就任した際には、技巧派スタイルへの転換要求に猛反発し、阪神へのトレードを直訴しますが、フロントから却下されて実現には至らなかった鈴木啓示。

317勝を可能にするほど徹底してストイックな練習法を貫き、妥協のない練習も語り草です。また、牽制球の技術にも抜きん出ており、阪急の福本豊が8mmフィルムでピッチャーのモーション研究を取り入れたのも、鈴木啓示の牽制のクセを見破るためだったというエピソードもよく知られています。

鈴木啓示が近鉄監督時代に野茂英雄と確執があった!野球解説者としての評判は?

鈴木啓示は近鉄監督時代に野茂英雄と確執があった!「よくぞここまでと頭が下がる」と称賛も

「名選手必ずしも名監督ならず」と言われますが、監督としての鈴木啓示はそのジンクスを打破できたのでしょうか?監督時代で有名なのは、エースだった野茂英雄との確執ですが、それが監督としての評価を著しく落としてしまったことは否定できません。鈴木啓示は、前任者の仰木彬とは180度異なり、現役時代に培った自己の経験を主張して譲らないタイプで、大エースだったがゆえに自己主張を曲げず、選手たちに任せる姿勢が皆無でした。

野茂英雄にも、代名詞のトルネード投法を修正させようとするなど、数々の揉め事を引き起こしています。その対立が頂点に達したのが、1994年の西武との開幕ゲームでした。開幕投手に指名されてノーヒットの力投を演じていた野茂英雄でしたが、9回に1アウト満塁のピンチで降板。開幕前には「今年は野茂と心中や」と話していた鈴木啓示でしたが、開幕で早くもその「公約」を自ら破る形となりました。

しかも、逆転サヨナラ負けで試合を落とすという最悪の結果に。さらに、メジャー挑戦を表明した野茂英雄に対して、「あいつのメジャー挑戦は人生最大の自己満足や」と言い切るほど、2人の関係は修復不能に見えました。しかし、時が経ち、現役引退した野茂英雄には、「よくぞここまでと頭が下がる。日本からメジャーに挑んだ選手の中で、あれほどタフで、粘り強い男はいない」と称賛を送るなど、心境の変化も見られた鈴木啓示。見方を変えれば、鈴木啓示こそメジャーリーガー野茂英雄の生みの親だと言えるでしょう。

鈴木啓示の野球解説は評判が悪い?率直な解説を評価する声も

鈴木啓示は、1995年シーズン途中に近鉄監督を退いた後は、もっぱら野球解説者として活動中です。近年はNHKに軸を置き、BSでの解説も多くなっています。しかし、その解説者としての評判は、決して芳しくありません。「ただの野球好きのオヤジみたい」とか「一本調子」「酔っぱらったオッサン」など、散々な言われようです。

「選手の名前を間違えるのも珍しくない」とも言われている鈴木啓示。ここまで言われると、評判は悪いと言わざるを得ないでしょう。しかし一方では、「昔から比べて丸くなった」「一方のチームに偏ることなく、平等だ」「ややぶっきらぼうな解説だけど、好き」といった具合に、評価する声も見られます。彼の解説は、一言でまとめれば朴訥な印象です。

決して弁舌さわやかとは言えないものの、真摯に、そして率直に自分の思いを伝えようとする姿勢には好ましさすら感じます。個性が強すぎるあまり、好き嫌いがはっきり分かれやすいタイプではありますが、年齢を重ねて円熟の境地に入り、丸みが出てきているのかも知れません。

鈴木啓示が出身地の兵庫県で「草魂杯」始球式に登場!「実際に見ることが大きな成長に」と熱いエール

プロ野球界最後の300勝投手として、不朽の名を残す鈴木啓示の名を冠した「鈴木啓示『草魂カップ』少年軟式野球大会」が、兵庫県西脇市で開催されました。西脇軟式野球協会などでつくる実行委員会が主催で、今回が5回目となります。北播磨をはじめ、但馬や阪神、淡路などから32チームが集い、トーナメント方式で熱戦を繰り広げる「草魂カップ」。

同市出身で、小学校時代に野球を始めた鈴木啓示は、開会式で、「人の話は目で聞く。勉強もスポーツも実際に見ることが大きな成長につながる」と、子供たちに熱いエールを送っています。始球式も自ら務め、かつての300勝投手の雄姿を見せてくれました。小学校時代のプレーが、彼の長い野球キャリアの原点となっていることからも、この大会への思い入れはひとしおでしょう。

未来の「草魂」たちに向けるまなざしも、かつての厳しい表情は見られず、どこか温かいものでした。70歳を迎えた現在も、球界の重鎮として活躍する鈴木啓示の野球への情熱はなお健在です。日本野球機構主催の新人選手研修会では、自身の経験談を踏まえて、プロ野球選手としての心構えやメンタルの持ち方などを若い選手たちに説き続け、名球会会員としても、日本全国各地で野球指導に奔走しています。

CMで呼びかけて流行語にもなった「人生、投げたらアカン」を体現する彼の人生は、まさに「草魂」。踏まれても踏まれてもしぶとく生き続ける昭和の大投手の人生は、大きな重みをもって私たちに訴えかけてきます。

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