田淵幸一のホームランが芸術的!ミスタータイガースの現役時代とは?

田淵幸一のホームランが芸術的!ミスタータイガースの現役時代とは?

田淵幸一の美しいホームランは芸術的!まさに天才肌だった「ホームランアーチスト」!

伝説のホームランバッター田淵幸一(たぶちこういち)は、悠然とした構えから軽くスイングしただけで、飛距離が長く、美しい放物線を描くホームランを量産しました。その惚れ惚れとするような打球から、「ホームランアーチスト」とも呼ばれた球界きっての天才スラッガーです。

「アーチスト」とは、ホームランの別称「アーチ」と「アーティスト」(芸術家)を掛け合わせた造語。田淵紘一の放つホームランは、まさに芸術的としか表現しようがありません。現役引退してから30年を超える月日が経過していますが、その美しいホームランは、いまだに語り草となっています。

ホームランを量産する長打力には天性の素質がありましたが、バッティングに対する姿勢も天才肌だった田淵幸一。野村克也によれば、大鏡の前でチェックに没頭する姿を見て、「鏡見てスイングもせず何してるんや?」と尋ねると、「僕は構えが決まれば打てるんです」という答えだったとか。

これには、さすがの野村克也も、「いい構えだけで何でも来いというのはコイツだけや」と唖然呆然。その人となりは天才肌で、球界でも珍しいほどの大らかさに満ちている田淵幸一。現役時代にバッテリーを組んだ江夏豊も、「彼ほど何もせず、何も考えずにホームランを打った奴を見たことがない」「天才と呼べるのは田淵幸一以外にいない」と証言しています。この証言こそ、田淵幸一の本質を的確に表現していると言えるでしょう。

田淵幸一は3代目「ミスタータイガース」!電撃トレードで移籍して日本一を味わった現役時代とは

田淵幸一の現役時代を振り返ると、波瀾万丈な野球人生に感慨すら覚えます。現役時代の通算成績は、実働16年間で、1739試合に出場して5884打数1532安打474本塁打1135打点、打率2割6分。法政大学第一高時代は甲子園出場経験に恵まれなかったものの、法政大学に進学して3度のリーグ優勝を経験。当時のリーグ通算本塁打記録となる22本塁打を放ち、大学球界きっての強肩強打の捕手として熱い視線を浴びます。

1968年ドラフト会議前には巨人入りが有力視されながらも、阪神タイガースが1位指名し、紆余曲折の末に阪神入りしました。背番号は、大学での通算ホームラン数と同じ「22」を付け、22本塁打を放って新人王に輝きます。デビュー戦で、「カミソリシュート」で名高い平松政次のシュートにひねられ三振させられ、以後はシュートを極端に意識するようになりました。

若い頃のホームラン談話は、いつも「打ったのはシュート」だったため、取材担当記者は一苦労。というのも、田淵幸一のこの一言で120行のトップ面記事を書かなければならなかったからです。2年目には、頭部へのデッドボールで重傷を負い、一時は生死の境をさまよいます。そのピンチを乗り越えて4番打者としてホームランを量産した田淵幸一は、エース江夏豊とのコンビで「黄金バッテリー」と称されました。

その活躍ぶりから、藤村冨美男、村山実に次ぐ3代目「ミスタータイガース」とも呼ばれています。1975年には43本塁打で念願の本塁打王に輝き、王貞治のタイトル記録を阻止。しかし、死球の後遺症から体型が急激に太り、捕手としての守備にも支障を来たすなどして評価が低落するようになりました。1978年オフになると、新生・西武ライオンズに電撃トレードされます。

深夜のトレード通告に対して、一時は激怒して険悪な雰囲気になったものの結局は西武入りした田淵幸一。1980年に43本塁打を放ち、1982年には広岡達朗新監督のもとで初の日本一を達成し、翌1983年の日本シリーズでは悲願の打倒・巨人を果たしての美酒を味わいました。

しかし、長打力の低下で潮時を悟り、1984年に現役引退を表明します。引退後は、福岡ダイエーホークス監督を経て、親友の星野仙一のもとで、阪神・楽天のコーチを歴任しました。北京オリンピックでも、日本代表ヘッド兼打撃コーチを務めました。現在は、野球解説者として活動を続けています。

田淵幸一の妻は八田有加!息子・田淵裕章の現在は?

田淵幸一の妻は美人ハーフタレント八田有加!実は「できちゃった婚」だった?

田淵幸一の現在の妻は、元女優の八田有加(はったゆか)です。彼女の名前を聞いても、若い世代は「誰?」となるかも知れません。しかし、世代をさかのぼれば、親しみを覚えるファンも多いのではないでしょうか。「ジャネット八田」名義で女優として活動していた八田有加は、時代劇から刑事もの、サスペンスと、ありとあらゆる作品に出演していた売れっ子美人女優でした。

ポーランド系アメリカ人の父と、日本人の母を持つ日本人離れした美貌。高校卒業後、日本航空でキャビンアテンダントとして勤務したものの、資生堂の専属モデルとしてスカウトされたことから、ジャネット八田の芸名でモデルデビューしました。もともと野球にとんと興味がなかった八田有加が田淵幸一を知ったのは、漫画「がんばれ!!タブチくん!!」だったとか。

そのため、作中でネタにされ、いつも茶化されていた田淵幸一ですが、「この漫画(『がんばれ!!タブチくん!!』)には不満などなく、むしろ感謝している」と語っています。2人の結婚は「できちゃった婚」で、田淵幸一が35歳でバツイチだったこともあり、大きな話題になりました。夫婦の間には2人の息子が生まれ、最近は、「徹子の部屋」に夫婦そろって出演し、変わらぬ夫婦仲を披露しています。

田淵幸一の息子は現在フジテレビアナの田淵裕章!その名前には「優勝」の願いが込められていた!

田淵幸一・八田有加夫妻の2人の息子のうちの長男が、フジテレビに入社し、アナウンサーとして活動している田淵裕章(たぶちゆうしょう)です。名前の「裕章」は、「ひろあき」と読みそうなものですが、彼の名前の読み方は「ゆうしょう」。それは、当時西武ライオンズに在籍していた父親の田淵幸一が、「来年こそ優勝(ゆうしょう)できるように」という願いを込めていたからだと伝えられています。

その思いが実ったのか、田淵裕章が生まれた翌1982年、西武ライオンズは、初のリーグ優勝と日本一を達成しました。高校時代の田淵裕章は、野球部で活動する一方で学生モデルとしても活動。青山学院大学卒業後は、2005年4月にフジテレビに入社しましたが、2009年10月から長期休職に入り、担当していた番組を全て降板しました。

当時は「体調不良」としか説明されていなかったため、過労やストレスを抱え込んでいたのではという噂も飛び出し、両親が有名人なので、社内いじめに遭うなどして人間関係に悩んでいたとも言われました。5カ月後の2010年3月から無事カムバックを果たし、2015年4月には、4歳年下の一般女性と結婚。35歳となった現在は、主にスポーツ中継を担当しています。

田淵幸一は阪神のドラフト指名後に巨人と接触!巨人入りしていれば背番号「2」だった?

1968年のドラフト会議で、阪神タイガースから1位指名を受けた田淵幸一。しかし、本人は巨人入りを熱望していたため、阪神からの指名をなかなか受け入れようとしませんでした。彼の選択肢には、社会人野球入りも含まれていたほどだったと言います。

そんな最中に、ある事件が発覚し、事態は混迷を深めることに。ドラフト会議から2週間が過ぎた11月終盤、東京都内のホテルにおける、巨人のスカウトと田淵幸一の「密会」がスポーツ紙で報道されたのです。記事の見出しには、「巨人、田淵が接触」「疑惑の行動」とセンセーショナルな言葉が並びました。当時のドラフト制度では、交渉は、「交渉権を得た球団」すなわち阪神しか認められていません。

そんな中、田淵幸一がドラフト交渉の相手ではない巨人と接触したことが疑惑と好奇の目で見られても仕方がない状況でした。巨人のスカウトは、「偶然会って挨拶しただけ」と釈明したものの、田淵幸一は、「高田さん(高田繁)経由でホテルに行きました。でも話はしていません」と、あっさりと真相を告白。「自分は巨人の考えを知りたかっただけ」と言うものの、「田淵はドラフトを潰したいのか!」という非難の声が実家に殺到する騒ぎになりました。

これを受けて、田淵家では、大学の理事や監督を交えた話し合いが行われ、ついに「阪神入り」が決まりました。ここに事態は収束を迎え、田淵幸一は「ミスタータイガース」への道を歩み始めることになります。田淵幸一の巨人入りが実現していれば、野球史は全く違う方向に進んでいたことでしょう。本人にとっては本意ではない阪神入りでしたが、このことでスーパースターへの道を踏み出したことを思えば、人生とは本当に分からないと感じさせられます。

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