田原総一朗 NHK「LIFFE!」で「朝まで生テレビ」コント!内村光良も大爆笑

2015年7月8日 更新

田原総一朗 NHK「LIFFE!」で「朝まで生テレビ」パロディコント出演!

田原総一朗 NHK「LIFFE!」でコント出演!宇宙人総理と討論!大爆笑事件

2015年5月21日、NHKで放送されている、ウッチャンナンチャンのウッチャンこと内村光良が“座長”を務めるコント番組「LIFE!~人生に捧げるコント~」に田原総一朗が出演します!内村光良が演じる、宇宙人であることを隠し日本の総理大臣になったというキャラクター小暮井総理が主人公のコント「宇宙人総理」に出演です。他局の代名詞のとも言える番組のパロディを、田原総一朗自身が司会として演じ、小暮井総理率いる人生党と野党の党首討論を仕切るというもの。収録ではアドリブが飛び交うスリリングかつ大爆笑の展開だったそうです。田原総一朗がコント出演などもちろん初です!今後絶対見られないかもしれない、最後かもしれない田原総一朗のコントは必見です!

田原総一朗 『聖徳太子、知らない?』朝まで生テレビ!事件

田原総一朗の名物番組といえば、「朝まで生テレビ!」1987年4月からテレビ朝日で金曜深夜に放送されている人気番組です。政治家や著名人などの出演者が、テレビを忘れ本気で討論する姿が人気の番組で、中でも有名なのが、2012年に放送された「朝まで生テレビ!」での田原総一朗と著述家の四宮正貴のバトルです。田原総一朗が「聖徳太子が何言ったかと言うと。和の精神ですよ」という発言に対し、カチンと来たのか四宮正貴は噛みつくように「何を言ったんですか?」と言い放ちます。それに対し田原総一朗は「聖徳太子、知らない?」と本人は真面目に質問しているつもりですが、著述家の四宮正貴に対して聖徳太子を知らないのかと聞くのは、喧嘩を売ったようなもの。そこから知ってるか知らないかの押し問答が続き、最終的には四宮正貴はキレて「当たり前でしょそんなこと!」と言ったのに対し田原総一朗は「怒んなっ」と発言。四宮正貴は「なーに言ってんの!聖徳太子を知らない?んな無礼な質問あるか!」といいますが、田原総一郎は受け付けず「君、だって知らないよ。だってピンと」と言いかけた間に割って入り「何を無礼なことを言ってんだ、君は!」と四宮正貴は怒り続けます。田原総一朗はのらりくらりと話を続けようとしますが、言いかけると四宮正貴はキレて奇声を発するまで至ってしまい、周りの白熱して議論していた人たちを引かせて、冷静になれと言われる始末。しかし「朝まで生テレビ!」をご覧になる方にとってはあまり珍しい光景ではないかもしれません。この番組はそういう部分もウリにしており、そこが人気の秘訣でもあります。人を喰ったような田原総一朗だからこそ、著名であるけれどもクセのあるコメンテーター達をまとめ上げられているのかもしれません。

田原総一朗 大塚英志との動画「ニコニコ超会議」事件

これは先月2015年の4月26日に幕張メッセで行われたイベント「ニコニコ超会議2015」において、司会者として出演した田原総一朗が、「超言論エリア」という会場内のスペースで行われた企画「護憲か、改憲か、日本国憲法を考える」で、各界のコメンテーター達と議論をしていた時に、出演者の一人であった批評家の大塚英志に対して田原総一朗がキレて、大塚英志が周りの制止を振り切り途中退席する事態が起きました。討論は当初企画通りに行われ、護憲派と改憲派に分かれて考えを主張している中で事件は起こります。話の流れが日本国憲法の理念から、何故か沖縄の基地問題へと段々移ってしまっていたのです。それに対して大塚英志が憲法の話が沖縄や集団自衛権の話に変わっていることを指摘、話を戻すよう要求すると、田原総一朗は憲法のうちだと反論しました。しかし大塚英志は納得せずに反論し、依頼された内容の話と全く違うと田原総一朗に対して発言します。これに田原総一朗は声を荒げ司会は自分だからこれで良いという趣旨の発言をし、大塚英志に「もしイヤなら僕をクビにしてくれ」と言い放ったそうです。大塚英志はこれに驚き、鼻で笑いながらクビには出来ないが、帰っていただいても構わないですよと発言。田原総一朗は堪忍袋の緒がブチ切れて「黙ってください!」と一喝したそうです。大塚英志はこれに対して匙を投げ「分かりました。帰ります」と告げ、隣にいた精神科医の香山リカの制止を振り切り討論の場からいなくなりました。香山リカはイベント終了後にツイッターで、どっちもどっちは言うのをやめていたけど、今回の事はどっちもどっちだと言いたくなる、と呆れた様子でした。日本に対して本気で熱く考える人だからこそ、譲れない所は頑として譲らない。田原総一朗は熱い男ですね。

田原総一朗のここだけの話

田原総一朗 テレビ東京のディレクターからジャーナリストへ!独特の価値観で道を開く開拓者!

田原総一朗は1934年4月15日生まれで現在81歳です。年齢が感じられないほど好奇心旺盛で、新しいものを受け入れつつも、自らの価値観で納得いかないことを切り開く、真のジャーナリストと言っても過言ではない田原総一朗。田原総一朗の始まりは高校を卒業してからです。作家を志して上京し、日本交通公社、現在のJTBで働きながら早稲田大学第二文学部日本文学科の夜学に在籍。文学賞に応募するも何度も落選。さらに同人誌活動をするも、先輩に才能が無いと何度も宣告されたそうで、その時同世代の作家、石原慎太郎や大江健三郎の作品を読んだ田原総一朗は、これは全く適うわけがないと作家を断念。ならばとジャーナリストに目標を切り替え、3年間で通った日数が数えるほどしかなかった早稲田大学第二文学部日本文学科を退学します。そしてジャーナリストになるべく、再度1956年に早稲田大学第一文学部史学科に再入学し、1960年に卒業。目標達成のため、マスコミ各社を手当たり次第受けるも一社も有名どころは通らず、やっと11社目に受かったのが岩波映画製作所で、カメラマンの助手を務めジャーナリストとしての第一歩を踏み出します。1964年東京12チャンネル現在のテレビ東京の開局と共に入社。ディレクターとしてドキュメンタリー番組を手掛けます。その題材は他局では決して取り上げない過激な題材を、逆手をとる形で次々と取材製作していきます。有名な話の一つとして、当時学生運動の真っ只中で暴動が起きていた早稲田大学に侵入。大隈講堂からピアノを持ち出して、ジャズピアニストの山下洋輔が「ピアノを弾きながら死ねるといい」と言った言葉を聞いた田原総一朗は、そこで山下洋輔にピアノを弾かせたそうです。田原総一朗は「内ゲバの中で山下洋輔が弾きながら死んでいく。これ、面白い、とおもったの」と述懐していました。しかしその狙いに反して暴動を起こしていた学生たちは、山下洋輔の演奏する渾身のジャズに聞き入り暴動が止まったそうです。面白いと思ったら止まらない田原総一朗は、1977年1月に、会社員ジャーナリストとしての活動を終えるべく東京12チャンネルを退社。フリーとなり、現在もジャーナリストとして活動しています。メディアでは「朝まで生テレビ!」を基本としてそれ以外は不定期及び単発の出演で、「仰天歴史塾 ニッポンリーダー列伝」も人気を博していましたが、惜しまれつつ数回で終了してしまいました。年齢もあると思いますが、それ以上にやりたいことしたいことが多くて、テレビの収録という時間を取られることは難しいのかもしれませんね。そんな田原総一朗は最初に結婚した奥さんは乳がんで死去されており、二回目の結婚は元日本テレビアナウンサーでウーマンリブ運動家でもあった村上節子(田原節子)さん。田原総一朗は愛妻家として有名で、節子さんがガンだと宣告された時と亡くなった時、二度自殺を考えたそうで、今でも遺骨を自宅に保存しているそうです。田原総一朗には田原敦子さんという娘さんが一人居り、現在テレビ朝日に入社し「世界の車窓から」「徹子の部屋」のプロデューサーをしているそうです。血は争えないと言ったところですが、娘さんは堅実な仕事をしているようです。

田原総一朗 「日本の花嫁」ディレクター時代の伝説ドキュメンタリー

田原総一朗の東京12チャンネルのディレクター時代にもう一つ伝説のドキュメンタリーがあり、それが「日本の花嫁」という1971年に製作されたドキュメンタリーです。日本の花嫁たちに会いに行くという、聞くと普通の企画に聞こえますし、恐らく当時の他の人もそう思っていたでしょう。しかしそこは田原総一朗。考えが違いました。ヒッピーのカップルが裸で結婚式を挙げると聞き、これは取材に行こうと思ったら止まらない田原総一朗。現場に到着するとそこでは「ディレクターも裸になって花嫁とセックスしないと取材を許可しない」と言われるのです。通常ならじゃあ止めましょう、になるのですが、田原総一朗は「仕事だからしょうがないじゃない。学生運動やった連中が結婚する、と。でその花嫁をみんなで仲良くする、と。『連帯と団結』これをやると。それで取りに行ったら、奥さんがね、『ディレクターとまずやりたい』と」とあっさり応じる田原総一朗。何人もの裸の男女が抱き合うという、とても地上波のゴールデンタイムで流すなんて考えられない映像が流れたそうです。しかもその中に田原総一朗もいたというのですから、なんとも凄い取材魂ですね。

田原総一朗の出身地 滋賀県彦根市について

田原総一朗の出身地 滋賀県彦根市の観光名物「彦根城とひこにゃん」

田原総一朗の出身地滋賀県彦根市の観光名物として有名なのは「彦根城とひこにゃん」ではないでしょうか。彦根城はその名の通り滋賀県彦根市にある日本の城で、別名金亀城と言います。天守と附櫓、多聞櫓が国宝になっています。井伊直継の時に築城が開始され、その後慶長8年西暦1606年に滋賀県彦根市の佐和山城から、居城を移して以来井伊家代々の居城でした。この御城は文献や天守隅木などから考えると、少なくとも慶長十一年に完成したと考えられています。意匠の限りを尽くされた壁や軒裏や破風を漆喰で塗り込み、金箔を押した飾りや金具が黒漆を多用したものがあり、華麗なのが特徴で、天守は国宝に指定されている現存する数少ない天守のある御城です。何度も改修され、観光地としても栄えています。また彦根藩の2代目藩主井伊直孝に縁のある1匹の猫をモデルとして、滋賀県彦根市のマスコットキャラクターであるひこにゃんが、築城400年記念イベント「国宝・彦根城築城400年祭」に初出場し、全国規模で人気を博し、その後も存続を願う人の多くの声を受けて、現在もひこにゃんは元気に活動しています。是非滋賀県彦根市にお越しの際は、国宝の彦根城とひこにゃんをご覧になってみては如何でしょうか。

田原総一朗の出身地 滋賀県彦根市の名物「近江ちゃんぽん」

田原総一朗の出身地、滋賀県彦根市の名物「近江ちゃんぽん」は50年ほど前に、地元で採れる新鮮な野菜を生かすために開発された滋賀のソウルフードです。中でも有名なお店は創業昭和38年の近江ちゃんぽん亭で、近江ちゃんぽん発祥と言われています。スープは六種類の魚節と昆布をじっくり煮だした「黄金だし」と呼ばれているものを使用し、あっさりとした味には旨みが凝縮されており、魚介の風味も活きているという美味しさです。近江ちゃんぽんに使われる、キャベツとネギとにんじんにもやしは、滋賀県をメインにして鮮度と品質の高い国産のものをチョイスし調理しているそうです。定番メニューの近江ちゃんぽんは、野菜並盛が税込702円で、野菜小盛りが税込626円、野菜大盛りが税込810円で2015年5月現在の価格はなっています。是非滋賀県彦根市にお越しの際は、近江ちゃんぽん亭総本家へ滋賀のソウルフードを食べに、店舗は彦根市に5店舗ありますのでお近くの店舗へ行かれてみては如何でしょうか。

多分誰が止めても止まらない田原総一朗。これからも是非止まらないで取材を続けて、普通のジャーナリストには出来ない切り口で、切り込んでいって欲しいですね。

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