田根剛の新国立競技場案が選ばれなかったワケ!エストニア国立博物館設計の評価は?

田根剛の新国立競技場案が選ばれなかったワケ!エストニア国立博物館設計の評価は?

田根剛の新国立競技場提案「古墳スタジアム」は斬新過ぎた!?

田根剛は37歳の日本の建築家です。学生の頃は、Jリーグのジェフユナイテッド市原のユースチームに所属し、プロサッカー選手を目指していたという異色の経歴の持ち主でもあります。
ニュースでも散々報じられた、2020年東京オリンピック招致に向けた新国立競技場基本構想国際デザイン・コンクールでは、田根剛の作品「古墳スタジアム」もファイナリストに選出されました。

残念ながら、最終的にはザハ・ハディッドの作品が選出されましたが「競技場に森をつくり、緑を復活させる」という日本を全面に押し出したコンセプトは大変話題になったものです。

田根剛の作品が落選した理由として、未来を感じさせる宇宙のようなザハ・ハディッドの作品と比べて、田根剛の「古墳スタジアム」は、スタジアムの周囲を緑で囲うだけともいえるデザインだったことから、少しインパクトに欠けたのではないかと言われています。しかし、ザハ・ハディッド案の採用が立ち消えになった今となっては、「日本らしさ」という面で「古墳スタジアム」の落選を惜しむ声も多いのもまた事実です。

田根剛は欧州で成功を収めた世界的建築家!

田根剛は若干26歳で、国際コンペ「エストニア国立博物館」の最優秀賞を授賞しました。これを機に、共にトライしたイタリア出身のダン・ドレル、レバノン出身のリナ・ゴットメの3人で設計事務所DGTをパリに設立し、海外をメインに活動し始めました。その後も順調に成功を収めていった田根剛は、2008年に、イギリスの雑誌で「世界の最も影響力ある若手建築家20人」にも選出されています。

エストニア国立博物館のコンペだけでなく、フランス文化庁新進建築家賞やミラノ建築家協会賞など、欧州で数々の賞を受賞していることから、日本よりもむしろ海外でのほうが有名かもしれません。

田根剛は北海道東海大学出身!一級建築士の年収は?

田根剛は自然への憧れでは北海道東海大学へ!

田根剛はJリーグの夢を断念すると、自然への憧れから、当時の練習拠点だった千葉から北海道東海大学に進学しました。学部は芸術工学部建築学科で、在学中にはスウェーデン留学も経験しています。

東京杉並区出身の田根剛ですが、卒業後も北海道東海大学とはつながりがあり、講演活動などを行っているようです。北海道から飛び出して、世界に名を馳せる建築家になった田根剛の存在は、北海道東海大学で学ぶ後輩たちにとっても、大きな刺激になっていることでしょう。

田根剛の年収は!?

田根剛くらい世界的に活躍している建築家ともなると、年収はどれくらいになるのかは興味のあるところです。田根剛の年収は明らかにされていませんが、一般的な一級建築士の年収は約650万円。田根剛の場合は、国際的に活躍していて、欧州で数多くの賞を受賞していることが証明するように国際的に高い評価を受けています。そのため、一般的な一級建築士の年収よりはもっと上に違いありません。

田根剛は舞台でも活躍!ディレクターを務めたゲイリーの展示会はリスペクト溢れるものに!!

田根剛は、大学卒業後すぐに活躍の舞台を欧州に移し、日本よりも先に欧州で、建築家としての成功を収めました。
現在は、建築家の仕事にとどまることなく、山口情報芸術センターの作品・プロジェクトの研究開発を行うチーム、YCAM InterLabとコラボして舞台芸術の世界にも取り組んでいます。

YCAM InterLabとのコラボ企画「Reactor for Awareness in Motion(RAM)」は、ダンサーの動きをコンピューターに取り組んで、その動きをダンサーにリアルタイムで提供するというもの。田根剛はこのプロジェクトが発表した「Dividual Plays―身体の無意識とシステムとの対話」に空間構成の担当者として参加しています。

「このプロジェクトは膨大な情報が含まれている「環境」というものと、ダンサーという1つの「情報」が頻繁に交信すること。これは土地の歴史、気候風土、光の変化なども含めて、環境の中にある膨大な情報を物質化する建築と似ていて、ずっと考えていたこと」と語っている田根剛。建築だけではない、自身の哲学を表現する新しい場所を見つけたようです。

田根剛はまた、2015年10月から2016年2月まで日本で開かれた建築界の巨匠フランク・ゲイリーの展示会のディレクターも務めました。「1人の人間としてのゲイリーの人物像を見てほしい」という田根剛の思いは、ゲイリーへのリスペクト溢れる展示会だったとの高い評価を集め、見事成功に導いています。

若くして成功を収めた田根剛ですが、まだ36歳。新国立競技場の提案は惜しくも落選してしまいましたが、いずれ国際的な大きな仕事を担当する時期が訪れることは間違いなさそうです。

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