徳川家康が天下統一後260年も続いたワケは?大河ドラマ「真田丸」のキーマン!

徳川家康が天下統一後260年も続いたワケは?大河ドラマ「真田丸」のキーマン!

徳川家康は実務家?司馬遼太郎が説く「革命の三段論法」

徳川家康は、1543年生まれで1616年に亡くなったと伝えられています。享年75歳。名だたる戦国武将の中で、図抜けて長寿を全うしています。歴史的現実からか、勝者の徳川家康は、織田信長や豊臣秀吉のような人気がありませんでした。

しかし、日本が高度成長の頃には、戦国時代を勝ち抜き、その後260年も続いた優良会社を築いたカリスマ創業者として、徳川家康が大ブームになった時期がありました。織田信長や豊臣秀吉に比べて、徳川家康は資料が多い分、かえって人物像が絞りにくいところがあります。いわく、我慢忍耐の人、冷徹な官僚タイプ、食えない狸爺など、相反するさまざまな顔を持っているのです。

ですが、考えれば、75年も生きてこれだけ功も得た人物なのですから、性格に幅と深みが出たのはあたりまえかもしれません。歴史小説の大家、司馬遼太郎が唱える革命の三段論法があります。歴史の変革期、まず狂人(思想家)が旧時代を破壊し、次に戦略家が混乱を収め、最後に実務家が新たな秩序を築く。

まさに戦国時代の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がこれに当てはまるのではないでしょうか。

徳川家康生身の人物像が、大河ドラマ「真田丸」のキーマンとなる

徳川家康が一番評価されるのは、天下を獲ったことではなく、死ぬまでの残り十数年の間に、今はやりの、継続可能な社会を築いたことでしょう。それは政治、外交、経済におけるさまざまな政策に見ることができます。例えば、誰もが学校で学んだ、江戸幕府の開闢、武家諸法度や参勤交代制度の確立。島原の乱の制圧と、キリスト教の禁教、そして鎖国。徹底した身分制度の確立などです。

やはり徳川家康は、司馬遼太郎のいうところの実務家という言葉がぴったりきます。今年のNHKの大河ドラマ「真田丸」では、真田幸村と対比しながら、戦乱の中で一歩一歩成長を遂げていく生身の徳川家康が描かれるそうですから、今後、「真田丸」のキーマンとなっていきそうです。

徳川家康の名言や手相もスゴかった!死因、子孫の現在は?

徳川家康の「天下取りの手相」や、数々の名言はほんとうか?

徳川家康の非凡さを表す証拠として伝えらえているのが、手相です。徳川家康の両手には、手のひらを横一文字に貫く「ますかけ線」があったといいます。この手相は、天下取りの手相と呼ばれており、非凡な才能や運の持ち主に現れるのだとか。もっとも一説には、徳川家康だけでなく、織田信長や豊臣秀吉にもあったといわれていますので、眉唾ものかもしれません。

徳川家康は、数々の薀蓄のある言葉も残しているようです。よく引き合いに出されるのは、「家康公遺訓」。しかしこれは、明治時代に元幕臣が、徳川光圀の遺訓と言われる『人のいましめ』を元にねつ造したものとされています。この他にも、有名な「泣かぬなら、泣くまで待とうほととぎす」も、江戸時代に創作されたものだそうです。

それはさておき、一般に知られている徳川家康の名言をご紹介しましょう。まずは、「勝つ事ばかり知りて負ける事を知らざれば其の害身に至る」。実は徳川家康、戦には何度も負けています。負けても決して命を落とすことなく、新たな好機を待った戦上手であったことは有名です。「多勢は勢ひをたのみ、少数は一つの心に働く」、「己を責めて、人を責むるな」、これらはリーダー論の機微に通じます。

そして極めつけの名言がこちら。「人の一生は、重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。急ぐべからず」。この言葉こそが、戦国の戦乱を生き抜き、平和な時代を築いた徳川家康の真骨頂といえるでしょう。

徳川家康の本当の死因と、子孫たちは今

徳川家康の死因は、鯛の南蛮漬けにあたってという説が一般的です。しかし死因には諸説あり、中には、さなだ虫が原因などいうものも。実際は、死の間際、たいそう痩せて吐血もあり、腹にしこりもあったという徳川家康、胃がんではなかったという説が有力です。

徳川家康の子供は、男だけでも11名といたと言われ、直系子孫は、今日までその系統が途切れていません。さらに御三家と呼ばれる、水戸家、尾張家、紀州家も代々当主が引き継がれてきているため、徳川家は、21世紀に至るまでその命脈を保っています。げに徳川家康、恐るべし。

徳川家康は、本オタクだった!?NHK歴史ヒストリアに見る新たなアプローチ

徳川家康が本ヲタ……最近では、歴史の資料が新たに発見されたり、研究が進んだりして、大人世代が学校で習ったことが次々と修正されていることに驚かされます。例えば、源頼朝の肖像画はどうやら本人ではなく、鎌倉幕府の成立年代も1192年ではなく、1185年であったとか、数えればきりがありません。
徳川家康についても同様です。2月放映のNHK歴史ヒストリアでは、「ワシは本で、天下をとりました~徳川家康堂々の本オタ人生~」として、徳川家康がかなりの読書家であったエピソードを取り上げ、新たな徳川家康像にアプローチしています。真偽は別として、「論語」「中庸」「史記」「漢書」「六韜」「三略」など、確かに中国の歴史書からの影響が色濃く見受けられる徳川家康が残した名言の数々。徳川家康は、中国の歴史書を好み、中でも前王朝の暴君を倒した王や重臣たちの生きざまに、我が身を重ねあわせていたようです。

また、徳川家康は読者家であっただけでなく、かなり多趣味で器用な人であったようです。徳川家康があの過酷な戦国の時代に、自分と歴史の流れを見誤ることなく生き残れたのは、その多彩な趣味から育まれたマルチな視点であったかもしれません。武士としての素養である、剣術、砲術、弓術、馬術、水術が、どれも一流であっただけでなく、囲碁、将棋に止まらず、香道、猿楽、薬作りにも長じていたと伝えられてる徳川家康。

こうしてみると、意外に徳川家康は、従来のいくつかのイメージとも異なる、気の利いたお茶目な性格であったかもしれません。

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