内川聖一と嫁との出会いはWBCだった!その活躍ぶりとは?

2020年10月28日 更新

内川聖一と嫁の結婚馴れ初め!WBCでの通算成績は?

内川聖一と嫁との結婚馴れ初めは?嫁は元フジテレビアナウンサーの長野翼

昨シーズンは、福岡ソフトバンクホークス不動の4番として141試合に出場し、自身8度目となる打率3割越えを記録した球界きってのアベレージヒッター内川聖一(うちかわせいいち)。プロ17年目、34歳(2017年3月現在)の内川聖一は、27歳のときに結婚し、現在は二児の父親でもあります。

内川聖一の結婚相手は、元フジテレビアナウンサーの長野翼。嫁は1981年3月16日生まれで、1982年8月4日生まれの内川聖一より、1歳上の姉さん女房です。長野翼は、早稲田大学第一文学部卒業後、2003年にフジテレビ入社。「FNNスーパーニュース」など報道番組のキャスターを務めていた正統派アナウンサーでした。一流プロ野球選手の内川聖一と美人女子アナ長野翼の馴れ初めは、2009年第2回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)。現地取材を任されていた長野翼が、内川聖一を含む代表選手らにインタビューをした際に出会ったのが最初だそうです。

もともと、長野翼のファンだったという内川聖一は、「ファンです」と本人に告白。出会いから1カ月後には知人の紹介もあって食事をし、交際がスタートしました。翌2010年3月24日にめでたく入籍となり、2012年6月5日には、第一子となる女の子、2017年1月20日には第二子の男の子に恵まれています。WBC代表メンバーに選出され、ファンだった長野翼に出会うことができた内川聖一。まさにWBCが結んだ縁で、最高の伴侶を得たと言えるでしょう。

内川聖一「天国と地獄」過去2回出場WBC通算成績とその活躍ぶりを解析!

2009年第2回WBC代表メンバーに選出された内川聖一は、当時、横浜ベイスターズに在籍。WBC開催の前年の2008年シーズンに、右打者史上最高打率.378を記録して、文句なしの代表入りとなりました。勢いはそのままに、第2回WBCでは、出塁率.400打率.333、18打数6安打4打点1本塁打と大活躍。特に、決勝の韓国戦では、試合中盤に同点に追いつかれ、嫌な流れに傾きかけたところを好守備でも貢献しました。

ライトへの打球を見事にスライディングキャッチした内川聖一は、好返球で二塁への進塁を阻止。その気迫のこもったプレーに観客も大いに沸き、賞賛しました。また、9回に追いつかれ、またしても立ちこめてきた暗雲を一掃するかのように、延長10回表、内川聖一が先頭打者で出塁。この勝負強さ、勝利への執念が、あのイチローの劇的なセンター前ヒットを生んだとも言えるでしょう。

2009年第2回WBC優勝が「天国」だとしたら、2013年第3回WBCは、内川聖一にとってまさに「地獄」だったかもしれません。2010年にFA権を公使し、2011年シーズンより福岡ソフトバンクホークスに移籍後も大活躍していた内川聖一。第3回WBCでは、打線の中軸を担う大事な役割を任され、また前回大会優勝経験者として代表の中心メンバーともなりましたが、あのワンプレーで「地獄」を見ることに。第3回WBC通算成績を見ると、内川聖一は、出塁率.400打率.348、23打数8安打4打点1本塁打と、準決勝まで勝ち進んだ原動力とも言える活躍ぶりを見せています。

しかし、準決勝プエルトリコ戦で、痛恨の走塁ミス。3-1でプエルトリコにリードを許していた日本は、8回裏の攻撃で1アウト1塁2塁の大チャンスを迎えます。「行けたら行け」というサインが出ていたといいますが、1塁にいた内川聖一だけがスタートを切り、2塁の井端弘和(当時中日ドラゴンズ)はスタートしませんでした。そのため、内川聖一は、1、2塁間で挟まれアウト。

ダブルスチールは失敗し、2アウトとなってしまいます。続く打者の阿部慎之助(読売ジャイアンツ)も倒れたことから、絶好のチャンスを活かすことはできませんでした。第3回WBCで日本は準決勝敗退となり、「あのワンプレー」で自分が流れを止めてしまったと後悔、号泣した内川聖一。確かに大きなミスだったかもしれませんが、それだけが敗退の理由ではありません。全責任を負ったかのような内川聖一の姿、涙は、野球ファンの心に深く刻みつけられました。

内川聖一のあごが原因で成績不振に!?バッティング技術の秘密とは?

内川聖一はトレードマークのあごが原因の体調不良で成績不振に!?

内川聖一と言えば、トレードマークとも言える特徴的な長い「あご」が取り沙汰されることもたびたびです。横浜ベイスターズ時代は、内川聖一の「あご」に触わると御利益があるというジンクスがあり、チームメイトにベンチで「あご」をいじられるという姿も。福岡ソフトバンクホークスでは、内川聖一を模した「ウッチーくん」というチームキャラクターもいますが、もちろん長い「あご」が強調されたキャラクターです。

しかし、内川聖一には、この「あご」が原因で体調不良に見舞われ、成績不振に陥った過去がありました。内川聖一はもともと噛み合わせが悪く、「あご」が右側に曲がっていました。そのため、頸椎が圧迫され、2003年には、右目視力の急激な悪化や、ボールを握ることさえもできないほどまで握力が低下するなど深刻な事態になり、登録抹消となってしまいます。

当時在籍していた横浜ベイスターズ側からは、契約金に手術代も上乗せされ「あご」を削るように打診もされたということですが、手術は行わず、歯列矯正で「あご」の歪みを治し、噛み合わせを改善。歯列矯正によって、頸椎圧迫もなくなり手術することなく回復することができました。

内川聖一の抜群のミート力を生み出すバッティング技術の秘密に迫る!

内川聖一は、2008年にセ・リーグで、2011年パ・リーグでそれぞれ首位打者となりました。これは、史上2人目となる快挙です。今や日本球界を代表する右打者となった内川聖一ですが、その道のりは決して楽なものでありませんでした。
大分工業高校1年生の時には、左足かかとの「骨嚢腫(こつのうしゅ)」を発症し、計3回もの手術を受けています。さらに頸椎圧迫による体調不良に見舞われるなど、プレーに集中できない期間も少なくはありません。歯列矯正の結果、体調は回復したものの、その後は「イップス」を発症するなど精神的な要因にも悩まされ、苦難は続きます。

しかし、心療内科の医師との出会いにより、広い視野を持つことを意識できるようになった内川聖一は、「イップス」を克服。また、横浜ベイスターズの杉村繁コーチとともに、バッティングスタイルを180度転換します。今までとは全く逆のスタイル、ボールのミートポイントをできるだけ体に近づけ、引きつけて打つことを意識したバッティングに変更しました。

これにより、選球眼も良くなった内川聖一は、変化球の対応もできるようになって、バッティングが著しい進化を遂げます。さらに、ボールの上を鋭いバットスウィングで叩き、スピンをかけることによって打球速度を上げ、内野間を抜けていくヒット性の当たりが多くなるように工夫もしていると言う内川聖一。天性のセンスはもちろん、努力の人であることがよく分かります。

内川聖一「WBCは僕の人生を変えてくれた」!準決勝アメリカ戦で涙を呑む

2013年第3回WBC準決勝での無念の敗退から4年。3大会連続で、侍ジャパン代表入りとなった内川聖一ですが、あくまで個人的な思いとは断りつつも、「WBCの借りはWBCで返すしかない」とコメント。その闘志、覚悟は相当なものです。「WBCは僕の人生を変えてくれた大会だから」と語っており、日の丸を背負って戦うことは、大きなプレッシャーであることは間違いありません。

2月25日に行われた福岡ソフトバンクホークスとの壮行試合では、一塁を守備中に走者(山下斐紹)と接触し、右肩打撲で出場も危ぶまれた内川聖一ですが、無事チームに合流。ベテランらしく、WBC優勝という栄光、そして準決勝敗退という辛酸を舐めたからこその経験でチームを支えました。

小久保裕紀代表監督は、内川を、DHもしくは、右の代打の一番手としての起用を考えているとコメント。2次ラウンドのキューバ戦では、大事な場面できっちり犠牲フライを打ち、監督の期待に見事応えた形となりました。内川の経験や勝負強さ、実力を信じて任せたことがガッチリ勝ちを引き寄せたと言っても過言ではありません。

そして、1次ラウンド、2次ラウンドを通し、無敗で準決勝に進出した侍ジャパン。対するは、全選手メジャーリーガーのアメリカでした。8回裏2-1とリードされている中で、代打で内川聖一が登場。ライト前にクリーンヒットを打ち、チャンスを作りますが、後が続きませんでした。あと1点に泣いた侍ジャパンは、あと一歩及ばず準決勝で敗退する結果に。内川聖一が、天を仰ぐようにして、涙を堪える姿が印象的でした。

3月31日には、ヤフオクドームにて、開幕戦(対千葉ロッテマリーンズ)を迎える福岡ソフトバンクホークス。今シーズンの内川聖一には、WBCでの悔しさをバネに、さらなる活躍と魅力的なプレーを期待しています。

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