山室光史(体操)は失敗してもヘラヘラ?性格は情けない?

山室光史(体操)は失敗してもヘラヘラ?性格は情けない?

山室光史(体操)は失敗をヘラヘラ笑ったのか?ロンドンオリンピック落下事故の真実

山室光史(体操)は、体操男子日本代表メンバーのムードメーカーらしいですが、重大な失敗をしておきながら、ヘラヘラしているのが許せない!そんな声が挙がったのは、2012年のロンドンオリンピックでの出来事でした。内村航平率いる、史上最強メンバーで迎えた団体総合の決勝。金メダルの期待がかかる大事な局面で、跳馬を跳んだ山室光史は、回転不足で着地を乱し、うつ伏せのままマットに落下してしまいました。

山室光史は競技続行が不可能と判断され、代表メンバーの富田洋之に背負われて退場しましたが、その時に笑っていたことが人々の勘に障ったようです。自分のミスで台無しにしてしまったのだから、神妙な面持ちでいるべき!と。しかし、この時の山室光史は、全治2カ月の左足甲剥離骨折を負っていたにもかかわらず、落下直後には自力で立ち上がっているのです。実際は、笑っている場合ではないくらいに痛かったはずなのに、なぜ、山室光史は笑ったのでしょうか。残されたメンバーの不安や絶望を思えば、自分の心身の痛みに泣くべきではない……そんな、反射的な心遣いだったとも考えられます。

山室光史(体操)の性格は情けないわけではなかった!眉毛が語る意志の強さ

山室光史(体操)は、失敗してもヘラヘラする情けない性格だ。ロンドンオリンピックでは、そんな印象を持った人も多いようです。母親が言うには、確かに体操を始めた7歳の頃の山室光史は、コーチの目を盗んで遊ぶ不真面目な性格だったそう。

しかし、小学5年の時には、全国大会で準優勝するなど、決して情けない性格では成し得ない成長を遂げています。オリンピックを夢見るようになった山室光史は、中学1年生で「腰椎すべり症」と診断され、「このまま体操を続けると歩けなくなる」と宣告されてしまいます。全く笑わなくなり、部屋に閉じこもるようになった山室光史。

早くに、このような経験をしたからこそ、あのロンドンオリンピックの笑顔があったのかもしれません。3年間の自暴自棄生活を経て、埼玉栄高校で復活を遂げた山室光史は、3年生でインターハイを制覇。日本体育大学、実業団ではチームメイトとなった同い年の内村航平に触発され、オリンピックにまで出場しています。彼の眉が物語る強固な意志なくしては、今の山室光史は存在するはずもありません。

山室光史(体操)の怪我の現在!体操を始めたきっかけは?

山室光史(体操)2度の怪我に悩まされた体操人生!足の骨折から意地の復活

山室光史(体操)は、20年に及ぶ体操人生のうち、選手生命を危ぶまれるほどの大怪我を2度経験しています。1度目は、中学1年生の夏に発症した腰椎すべり症。山室光史が「腰の中が痛い」と耐えがたい痛みを訴えたのは、激しい体操の練習で腰椎がずれてしまったことが原因でした。ぎっくり腰と症状は似ていますが、大きく違うのは、ずれた腰椎が元に戻らないこと。

しかし、靱帯に柔軟性がある若年で発症した場合は、安静にしていれば元に戻ることが多く、山室光史の場合も、中学校3年生になった頃には痛みは治まっていたといいます。故障を乗り越え、高校、大学で再起を果たした山室光史。次なる試練は、2012年のロンドンオリンピックの落下事故による、左足甲剥離骨折でした。あれほどの出来事ですから、ここで引退という選択もあったはずですが、山村光史は内村航平に誓った「借りは4年後に返す」との言葉を守るべく、2度の手術を経て、見事復活。2013年世界選手権では、男子つり輪で7位、2015年のアジア選手権では金メダルを獲得し、リオオリンピック出場最終枠をギリギリでもぎ取りました。

山室光史(体操)テレビの中の体操に憧れた少年を導いた母とコーチの存在

山室光史(体操)が体操を始めたきっかけは、「テレビで観た体操がしたい!」と言ったことが始まりました。その言葉を聞いた母親は、7歳の山室光史を連れて、埼玉県さいたま市にある「サトエスポーツクラブ」の門を叩きます。山室光史の自宅は、茨城県古河市。中国出身のコーチ・呉傑(ゴケツ)に見出され、一般から競技コースに移ってからは、片道1時間の道のりを、山室光史の母親が毎日車で送迎したそうです。

もともとサッカーをやっていた山室光史の優れた運動神経を、呉傑は高く評価していました。ところが、山室光史は怠けがちで、自宅では、両親が半強制的に練習をさせていたといいます。とうとうペナルティを与えたれた山室光史は、呉傑の”壁倒立の刑”に処されました。この時、山室光史は約1時間にわたって逆立ちし続けており、呉傑を驚かせたそうです。

そんな中、腰の故障は、体操で世界を目指すようになった頃に起こりました。中学では授業にも出なくなり、腰の痛みが引いても体操に戻る自信を取り戻せずにいた山室光史。「どうせ潰れるなら、体操で潰れろ」という呉傑の声かけによって、再び体操人生に引き戻されることになります。

山室光史(体操)V6の「学校へ行こう」に出演していた!リオオリンピックで叶えた夢

山室光史(体操)がギリギリで出場を決めたリオオリンピックでは、悲願の体操男子団体金メダル獲得となりました。山室光史にとっては、4年前のロンドンオリンピックでは、自分自身の失敗で逃した金メダルを、日本代表チームに取り戻す戦いでもあります。

しかし、決勝1種目目のあん馬で、またしても山室光史が落下してしまい、チームは6位スタートとなってしまいました。「ミスの直後はどうしようかと思ったが、やれることをやろうと思った」と語った山室光史。その気持ちに応えるように、5番目の鉄棒種目でトップに立つと、日本代表チームは、最後の床運動では白井健三、加藤凌平、内村航平の安定した演技で逃げ切りました。

4年前の雪辱に奮い立ったのは、山室光史だけではありませんでした。日本代表チームも、以前とは比べ物にならないほどに、一回りも二回りも大きくなっていたのです。4年前の失敗と怪我の後遺症が憂慮され、今回の代表チームでは、山室光史は最も不安視された存在でした。実際に、今大会でも苦しむ場面は見られましたが、チーム全体で勝ち取った金メダルは、誰のどの歴史を欠いても得られなかったものなのです。

実は、山室光史は、小学6年生の時に、V6のバラエティ番組「学校へ行こう!」に出演しています。まだ挫折を知る前の、ただ真っすぐに世界を夢見ていた頃の山室光史は、「オリンピックに絶対出ます!」と宣言し、あん馬の旋回を披露。あれから、度重なる苦難に折れそうになりながらも、夢を叶えた山室光史。これが最後のオリンピックになる可能性もありますが、今なら、小学6年生の頃の自分を清々しい気持ちで眺めることができるのではないでしょうか。

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