山中伸弥は手術が苦手で逃げ出した?ノーベル賞までの略歴は?

2020年5月15日 更新

山中伸弥は手術が苦手で逃げ出した!略歴は?マラソンに挑戦し続ける理由とは?

山中伸弥は手術が苦手で逃げ出した!略歴は?

日本人のノーベル賞受賞が続いています。山中伸弥もその一人として、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞。しかし、山中伸弥は、もともとは研究者ではなく、整形外科医を志す医者でした。

山中伸弥の略歴をご紹介しますと、神戸大学医学部医学科卒業後に、国立大阪病院整形外科で臨床研修医として勤務を開始します。しかし、人間相手の手術が苦手という弱点が明らかに。うまい人なら2時間で終える手術に、手術が苦手な山中伸弥は2時間かかる始末でした。

しかし、重症のリウマチ患者との出会いから、重症患者を救う手立てを探る研究者になることを決意。病院を辞め大阪市立大学大学院に入学します。一見すると、手術が苦手で逃げ出したように見える進路変更ですが、その決断がノーベル賞受賞への第一歩でした。

山中伸弥が研究のかたわらマラソンに挑戦し続ける理由とは?

整形外科医から研究者へ進路を変更した山中伸弥ですが、研究者としての道も険しいものでした。そして、そこに山中伸弥がマラソンに挑戦し続ける理由が隠されています。昼夜を問わず研究に打ち込み、とうとう山中伸弥はアメリカの大学に研究者として留学するチャンスをつかみます。

彼の地アメリカで、山中伸弥は充実した研究者生活を送りますが、帰国後はアメリカとの研究環境の落差や周囲の無理解に落ち込む日々。一時は研究者を辞めることも考えたそうです。研究費の不足により苦渋を舐めた経験があるだけに、研究費を安定して確保することの必要性を痛感した山中伸弥。

自身の趣味であるフルマラソンを完走することを条件に寄付を募るクラウドファンディングという募金方法により、iPS細胞研究を進めるための資金提供を呼びかけます。2012年にはこの挑戦で1000万円を確保しています。

山中伸弥京都大学IPS細胞研究所所長としての功績と評判は?

山中伸弥が京都大学IPS細胞研究所所長としてあげた大いなる功績

奈良先端科学技術大学院大学での研究により、iPS細胞の開発に成功した山中伸弥。その後は京都大学へ移り、京都大学IPS細胞研究所所長に就任します。万能細胞と呼ばれ、身体の様々な部位の細胞になることができるといわれるiPS細胞。これを開発しただけでも、大いなる功績ですが、山中伸弥は、さまざまな医療応用を実現するためさらなる研究を進めています。

再生医療に使用できるIPS細胞の開発。難病の治療薬のiPS細胞を活用しての開発。こういった具体的な目標を掲げ、実績を積み上げています。また、iPS細胞技術の特許を確実に取得するのも京都大学IPS細胞研究所所の大事な仕事です。iPS細胞の技術が流出することを防ぐことも将来的には京都大学IPS細胞研究所所の大きな功績となるでしょう。

山中伸弥は文武両道なスポーツマン!謙虚でよすぎる評判とは?

山中伸弥はノーベル賞を受賞した際、「これからの発展への期待の意味が大きいと信じている。速やかに現場に戻り、研究に取り組みたい」と語りました。これは山中伸弥が現役の研究者であることともに、患者さんの役に立ちたいというはっきりとした目的を持ち、研究者として常に真摯で謙虚な姿勢を貫いていることを示しています。

周囲からの評判もその発言から察せられる通り上々。情熱的でまっすぐ、真摯でさわやかな人柄だともっぱらの評判です。そんな山中伸弥の評判は、少年時代から変わらないようで、成績は常にトップクラス。熱心に生徒会の副会長を務める一方で、部活にも積極的に取り組み、柔道は黒帯。文武両道でさわやかなスポーツマンというところまで現在の評判と変わらないようです。

山中伸弥が「じゃまなか」、「やまちゅう」から、ノーベル賞へはばたけた理由

山中伸弥はノーベル賞を受賞し、京都大学IPS細胞研究所という日本を代表する研究所の所長として活躍しています。しかし、そこに至るまで、前述のように数々の挫折を味わってきているのも事実。整形外科医を志した時代には、特別不器用だったわけではないのに、人間が相手になると緊張して手術がうまくできず「じゃまなか」と屈辱的なあだ名をつけられることも。

研究者を志してからも、アメリカ留学からの帰国後、半分うつ病のような状態になったこともあったと語っています。当時、ネズミのES細胞を研究していた山中伸弥は、実験用マウスの世話に追われ、周囲から今度は「やまちゅう」と呼ばれたそうです。アメリカでは実験用のマウスの世話は専門の担当者がいたのに比べ、当時の日本では研究者自らがネズミの世話もしなければならなかったことから、自分は研究者なのか、ネズミの世話係なのか分からなくなったと言います。

また、当初は医学部で研究を行っていたことから、すぐに役に立つわけではない基礎研究への周囲の理解もなく、「医学部にいるんだったら、医学のためになることをしたほうが良いぞ」と言われることもしばしば。こうした環境が、さらに山中伸弥を落ち込ませました。

しかし、山中伸弥が立ち直るきっかけとなる出来事が起こります。
一つはアメリカの研究者が人間のES細胞を作りだすことに成功したこと。これは再生医療の大きな一歩といわれ、山中伸弥も自分が当時行っていたES細胞の研究も医学に役立つ可能性があると思い、将来に希望を持てたと言います。

そして、もう一つのきっかけが、奈良先端科学技術大学院大学に採用されたことです。研究者として最後のチャンスと思い公募に応募したところ、見事採用され、自らの研究室を持つことができたのです。充実した研究環境の中、山中伸弥はこの研究室でiPS細胞の開発の成功に至ります。

何度もくじけそうになりながらも、あきらめずに取り組んできたことが、山中伸弥がノーベル賞を受賞することができた理由の一つなのでしょう。同時に山中伸弥自身「iPS細胞技術はまだ完成していません。1人の患者さんの命も救ってはいません」「もっと頑張って、本当の意味でiPS細胞技術を完成させる」と今後の目標を掲げています。研究者として一人でも多くの患者を救うというノーベル賞よりも大きな目標のため、山中伸弥は、これからも研究に邁進していくのでしょう。

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