吉田松陰は松下村塾を開いた偉人?辞世の句「大和魂」の意味を解説!

吉田松陰は松下村塾を開いた偉人?辞世の句「大和魂」の意味を解説!出典:http://www.co-media.jp

吉田松陰は松下村塾を開いた偉人?実は相当の狂人だった!!

吉田松陰と松下村塾の関係は?教え子たちが明治維新を実現した

吉田松陰は、幕末に活躍した偉人の1人として知られる人物です。叔父が開いた松下村塾で学んだ後に、指導者になりました。吉田松陰が教えた松下村塾の塾生からは、高杉晋作や山縣有朋、伊藤博文ら明治維新や明治政府を主導した人物も数多く育ったことが知られています。そんな吉田松陰の通称名は、寅次郎。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では、寅次郎と呼ばれることの多かった姿をご記憶の方もいるかもしれません。

現在の山口県にあたる長州藩士の家に生まれた吉田松陰は、幼少期より教育を受け、養子となった先で、山鹿流兵学を修めます。そして、わずか9才で、長州藩の藩校「明倫館」の兵学の先生として就任します。また、長沼流兵学を学び四書五経を読んだりするなどして、次々と知識を吸収。「従来の兵学は時代遅れだ」と感じてからは、九州で西洋兵学を学ぶだけでは足りず、江戸では佐久間象山や安積艮斎(あさかごんさい)からも教えを受けました。

吉田松陰は偉人?死罪も恐れないその大胆極まりない行動とは

吉田松陰は、群を抜く頭脳の明晰さで偉人として称えられる一方で、実は相当な狂人だったとも伝えられています。嘉永5年(1852年)、東北への視察旅行を計画した吉田松陰は、長州藩からの通行手形発行が待ちきれないあまり、脱藩してしまいます。当時、脱藩と言えば、ときには死罪になる場合もあるほどの重罪でした。

東北旅行を終えて戻った吉田松陰は、罪には問われたものの、幸いなことに死罪は免れています。しかし、1853年、浦賀に来航した黒船を見た吉田松陰は、今度は外国への密航を目指すように。来日していたペリーの艦船で渡航しようと試み、乗船を果たすも、渡航は拒否されたため、やむなく奉行所に出頭して捕らえられています。

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この時、「死罪にせよ」との意見もあったと言いますが、老中たちの反対によって助命が叶った吉田松陰。とはいえ、これにひるむ様子は一切なく、日米通商条約の締結に際しては批判的な立場を取り、老中の暗殺計画を企てたことから、とうとう斬首刑に処され、享年30才という短い生涯を終えました。狂人とは言いすぎかもしれませんが、天才・吉田松陰が、単なる知識人でなく、知識欲にあふれ、行動する人であったことは確かでしょう。

吉田松陰の名言集!辞世の句「大和魂」の意味を解説!

吉田松陰の名言集を公開!学問とは?行動する意味とは?

天才・吉田松陰は、思想家としても、多くの名言を残しています。たとえば、学問については、「今日の読書こそ、真の学問である」や、「学問とは、人間はいかに生きていくべきかを学ぶものだ」など。吉田松陰が、なぜあらゆる書物を読み漁ったのか、そして、いかに学ぶことを大切にしていたかがうかがえます。さらには、「志定まれば、気盛んなり」や「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」といった、行動力に関した名言も。

目的を達するためには、かなりの無茶もしたという吉田松陰の行動理念がよく表れていると言えます。吉田松陰が最後に残した名言として知られるのは、辞世の句である「大和魂」です。この句を持って、その短い生涯を閉じています。

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吉田松陰の辞世の句「大和魂」に込められた意味を解説!

「大和魂」は、当時の幕府が、朝廷の許しを得ることなく日米修好通商条約を締結したことに激怒した吉田松陰が、草莽崛起論(そうもうくっきろん)を唱え、老中暗殺を計画したものの露見。安政の大獄に連座して捕らえられて、斬首刑となる直前に生み出された吉田松陰の辞世の句です。

句の内容は、「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」。「たとえ武蔵野の地で死んだとしても、私の大和魂はそこにあり続ける」といった意味で、文明開化以前の日本において、すでに世界に目を向けていた吉田松陰の、1人の侍としての矜持が強く感じられるかのようです。

吉田松陰の形見の刀ははたして真か贋か?

吉田松陰は、明治維新における精神的な指導者として、多大な影響を与えた人物です。2015年には、吉田松陰の妹を主人公にしたNHK大河ドラマ「花燃ゆ」が放送されたほか、明治日本の産業革命遺産として松下村塾が世界遺産に認定されるなど話題になりました。それから数年が経った今、明治維新から150年という節目を迎える2018年に向かって、各地では、観光誘致活動が盛り上がりを見せています。

2017年には、群馬県の前橋文学館で、「吉田松陰の形見の短刀」が公開されました。前橋市によれば、この刀は、初代群馬県令である楫取素彦(かとりもとひこ)の妻で、吉田松陰の妹・寿が所有していたもの。その後、群馬県出身の実業家・新井領一郎が渡米する際に手渡されたことから、これまでは、米国・カリフォルニア州に在住する新井領一郎の曾孫が保存していたとのことです。

実は、新井領一郎の孫にあたるハル・松方・ライシャワーが、著書「絹と武士」の中で、この刀に関して触れていました。しかし、その記述と、今回の刀の詳細が食い違うことから、今、真贋論争に発展する騒動となっています。「絹と武士」では、「刀の銘は国富で長さは35cmほど」となっているところが、今回公開された刀は「刀の銘は国益で長さは42cm」ということなので、本物と断定するには早急な気も。

とはいえ、話題となることで、新たな史料や見解が発見されることも期待できるはず。今は、歴史ロマンのひとつと見て、成り行きを見守っておくのもいいのではないでしょうか。

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