衣笠祥雄が広島カープの監督になれない理由!プロフィールは?
衣笠祥雄なぜ広島カープの監督になれない?その理由は「監督の器ではない」と本人が辞退したから?
元広島東洋カープの衣笠祥雄(きぬがささちお)は、「鉄人」の愛称でおなじみ。現役時代は、山本浩二とともに、赤ヘル打線の中軸として活躍し、三振を恐れないフルスイングでファンを沸かせました。
ケガやデッドボールをものとせずに試合に出場し続けた結果、当時の世界記録となる2215試合連続出場の偉業を達成。その功績が称えられて、国民栄誉賞を受賞したことでも知られています。まさしく、カープ黄金時代を築いた立役者の1人です。しかし、これほどの功労者でありながら、広島カープの監督に迎えられたことは一度もありません。僚友の山本浩二は、広島カープの監督を2度も務めているというのに、これは不可思議な話です。
なぜ、衣笠祥雄は広島カープの監督になれないのか……これは、ファンならば誰しも抱く疑問でしょう。その理由については、諸説飛び交っていて、いわく「本人が固く辞退している」「球団オーナー筋との確執」「チームでの人望がない」など。あるいは、「ハーフという出自が災いして差別を受けている」「国民栄誉賞受賞の経歴が足かせになっている」などといったものもあります。
実際のところ、球団オーナーとの確執は、ファンの間でも信じられている話ですが、さらに、この中で理由になるとすれば、「本人が辞退」+「国民栄誉賞受賞の経歴」が考えられそうです。球団は監督就任要請をしてきたものの、本人が、「人を指導するのが大の苦手で監督の器ではない」と断ってきた経緯があったのは事実の様子。
「監督として結果を残せなかったら、球団に恥をかかせるだけでなく、国民栄誉賞にも泥を塗ってしまう」という配慮の結果といえそうです。御年70歳と、年齢が年齢ですので、衣笠祥雄が広島カープの監督を務める機会は事実上絶たれたと考えなければならないでしょう。
衣笠祥雄に連続試合出場で国民栄誉賞授与!背番号「3」は球団の永久欠番に
衣笠祥雄は、1947年1月18日生まれの70歳。京都府京都市東山区馬町出身、身長175cm、体重73kgで、アフリカ系アメリカ人にして在日米軍人の父親と、日本人の母親との間に生まれたハーフです。当時コワモテぞろいだったカープナインの中で、ひときわ精悍な顔立ちが目立ったのも道理でしょう。
衣笠祥雄は、古豪・平安高校では、強肩・強打のキャッチャーとしてプレーし、1964年春夏甲子園連続出場でベスト8に進出。その強打が認められ、翌1965年に、広島カープに入団しました。しかし、肩の故障が災いし、内野手へ転向します。後に国民栄誉賞を受賞するまでに大成しましたが、若い頃は、手に負えないヤンチャぶりだった衣笠祥雄。
特に、入団時の契約金でアメリカ車を買ったほどのカーマニアでした。当時のカープは財政も苦しく、監督やコーチ、主力選手らですら、マツダ製の日本車が関の山。それをどこ吹く風とアメリカ車を乗り回していたのですが、何度も事故を起こし、最終的には免許をはく奪されています。
それはさておき、1968年からは、ファーストとして一軍レギュラーに定着した衣笠祥雄。1970年10月からは、連続試合出場が始まり、現役引退まで果てしなく続くことになります。多少のケガでも休まず試合に出場する姿から、いつしか「鉄人」の愛称が彼に付けられました。
1975年には、新任ジョー・ルーツ監督の構想でサードに転向。この年、山本浩二と共に中軸を担い、「赤ヘル旋風」を巻き起こします。オールスターゲームでも、山本浩二との2打席連続アベックアーチと打撃で爆発。その活躍が実り、ついに、球団創設25年にして悲願のリーグ優勝を味わいました。1979年には極度の不振で、連続イニング出場688試合が途切れる屈辱を味わいますが、チーム初の日本一に貢献。1980年には、1247試合連続試合出場の日本プロ野球記録を達成。1982年には、12年連続全試合出場で、王貞治の持つ11シーズンの記録を塗り替えました。
1983年になると史上16人目の通算2000安打を達成し、プロ野球名球会入りを果たします。翌1984年も、バッティングは好調で、打率3割2分9厘、31本塁打102打点をマーク。打率はプロ入り初の3割をクリアし、打点王タイトルを獲得。4年ぶりのチーム日本一への貢献が評価され、MVPにも選出されました。
しかし、1986年6月に2000試合連続出場を達成しますが、シーズン通じて打撃は振るいませんでした。史上まれにみる巨人との激戦を制してリーグ優勝したものの、苦戦の側面として衣笠祥雄の不振が指摘されたのは仕方ないことでしょう。翌1987年6月は、ルー・ゲーリッグを破る2131試合連続出場に到達。王貞治以来プロ野球2人目の国民栄誉賞を授与されます。
しかし、衰えは隠せず、9月に、「満足に守備ができなくなった」と現役引退を表明。10月22日の最終試合出場で、連続試合出場「2215」とピリオドが打たれました。その功績で、衣笠祥雄の背番号「3」は、山本浩二の「8」と並ぶ永久欠番とされています。
衣笠祥雄が鉄人と呼ばれるまで!現役時代の記録が凄かった!
衣笠祥雄の鉄人エピソード!愛称の由来は当時の背番号と「鉄人28号」だった!
衣笠祥雄の愛称は「鉄人」です。そもそも、「鉄人」の愛称が定着したのは、体の丈夫さに加えて、当時の背番号「28」が由来でした。横山光輝の名作漫画「鉄人28号」がヒットし、それにちなんで「鉄人」と呼ばれるようになったのです。実際、衣笠祥雄の体の頑健さは、愛称に違わぬものでした。
多少の負傷はものともせずに試合に出場することは日常茶飯事。2215試合連続出場の偉業は、その頑健な体がもたらしたといえます。しかし、その偉業があわやストップかという危機に見舞われたこともありました。それが1979年8月1日の対巨人戦で、衣笠祥雄は、西本聖からデッドボールを受けます。体にボールの縫い目がつくほどの衝撃で、左肩甲骨の骨折により全治2週間という診断が下されました。
ここまで積み上げてきた連続試合出場記録は1122試合。もはやここまでと誰もが思いましたが、翌2日の試合では、ピンチヒッターとしてまさかの起用。「バッター大野(豊)に代わり、衣笠。背番号3」のコールには、広島ファンだけでなく、巨人ファンやベンチも万雷の拍手と歓声を送りました。江川卓の投げ込む外角速球を全てフルスイングした衣笠祥雄は、1球も見送ることなく3球ストライクに。
夜通しの激痛で眠れなかったという衣笠祥雄でしたが、明け方になると、奇跡的に左肩が動かせる状態になったそうです。指揮を執る古葉竹識(こばたけし)監督も、「バットを振る振れんはともかく、グラウンドに立てる状態なら出てくれないか」と伝えたといいます。何としても連続試合出場させたいということでしょうが、今では考えられないことですね。
さらに、続く3日には、2番サードでスタメン出場を果たします。人間離れしたエピソードの裏には、工夫も凝らされていました。バックネット方向に腰をひねってボールの衝撃を和らげるなど、デッドボールの受け方もうまかった衣笠祥雄。長く試合に出場し続けるためには、それくらいの工夫がないとダメなのでしょう。
衣笠祥雄は積極果敢な走塁で盗塁王のシーズンも!500本塁打以上で200盗塁以上の凄い成績だった!
衣笠祥雄のプロ通算成績は、23年間で、2677試合出場9404打数2543安打504本塁打148打点266盗塁161死球、打率2割7分。どうしても連続出場試合記録が取り上げられがちですが、主軸打者としての記録にも凄いものがあります。彼の中には、バットでうまくミートするという思考は一切なく、常に体がねじ切れんばかりのフルスイングで打席に挑んでいました。
そのスタイルからか、打率3割をクリアした年は、23年間の現役のうちわずか1度。一方で、日本記録を保持するほど、三振のイメージも強いですが、意外なことに、三振はシーズン90以上したことがありません。また、これほどの強打者でありながら、衣笠祥雄は走力にも秀でていました。
機動力を重視したチーム事情もあり、積極果敢な走塁もしばしば見せています。1976年には、31盗塁で盗塁王のタイトルを獲得。通算500本塁打以上のスラッガーで200盗塁以上を記録しているのは、ほかには張本勲(504本塁打、319盗塁)と、山本浩二(536本塁打、231盗塁)くらいしかいません。また、ほぼ4番に固定された山本浩二とは対照的に、ある年は5番、ある年は2番、ある年は3番と毎年安定した打順ではなく、それだけオールラウンドプレイヤーだったともいえます。
衣笠祥雄がテリー伊藤との対談で古巣への思い語る!カープ躍進に「逆境で結束を高めるチームカラー」と分析!
「鉄人」衣笠祥雄が、テリー伊藤の対談ゲストとして今回登場し、昨シーズン25年ぶりにリーグ優勝を飾った古巣カープへの思いを余すところなく語りました。25年ぶりの優勝については、「長かったけど、その分だけ喜んでくれる人が増えたかな」というのが実感で、25年分の積み重ねが歓喜に結びついたとすれば、結果的によかったと語った衣笠祥雄。
反面、現役時代は、東京のスポーツ紙1面をカープが飾ることはめったになかったことから、カープが1面を独占するご時世には半信半疑で、「ホントに広島?」と、隣の人の新聞をのぞき込んだこともあったとか。それほどまでに強くなったカープですが、躍進の理由を問うテリー伊藤に、衣笠祥雄は、1つの考察結果を述べています。
FA制度が発足して以降、カープは、主力選手が次々と流出する歴史を重ねました。数えてみれば、川口和久、江藤智、金本知憲、新井貴浩といった具合にカープを出て行くのは主力ばかり。逆にFAで選手補強したことはありません。しかし、そんな中でも、それほど大きく順位が下がらないのがカープ。逆境に追い込まれても、「残った自分たちが頑張るしかない」と結束を高めるチームカラーだと、衣笠祥雄は分析しています。
カープへの愛情あふれる眼差しと分かりやすい説明は、OBならではのもの。それにしても、やはり、衣笠祥雄の連続試合出場は、不朽の金字塔です。今後、その記録を凌駕する選手が現れるのでしょうか?