前川清と元妻・藤圭子の離婚原因とは?それぞれの人生と子供たち

2017年2月21日 更新

前川清と元妻・藤圭子の離婚原因とは?それぞれの人生と子供たち

前川清の初婚相手は、宇多田ヒカルの母にして、伝説の歌姫藤圭子

前川清は、1948年8月19日生まれの67歳です。最近では、九州で放映されている「笑顔まんてん タビ好き」に出演し、高視聴率をマークするなど、思わぬ人気再燃でも注目されています。あらゆるジャンルの音楽の揺籃期で、歌謡曲もまたさまざまに変化していった1970年代。従来の演歌を、都会的にアレンジしたムード歌謡がヒットし、男性のコーラスグループが次々とデビューしました。

中でも、大人気だったのが、前川清がメインボーカルを務めたクールファイブです。一方、日本が70年安保や学生運動などで騒然としていた1969年、「新宿の女」で彗星のようにデビューしたのが藤圭子。まだ17歳で、市松人形のような髪型と黒目がちな目で、儚げな少女が歌う演歌は、夜の巷の歌というより、怨歌として、時代の暗部に流れる通奏低音のように、人々の心に刻みこまれました。

藤圭子は「圭子の夢は夜開く」「命預けます」など、時代の寵児として空前の人気を得ながら、1971年、デビューからたった2年で、前川清と結婚します。前川清もまだ23歳、藤圭子は20歳の若さに、芸能界は騒然となりました。さらに、前川清と藤圭子は、たった1年あまりで離婚してしまったため、芸能マスコミは一斉に、子供のままごと夫婦と、大バッシングを始めました。

前川清・藤圭子の離婚後、それぞれの人生と子供たち

前川清は、藤圭子にとって、芸能界でたったひとり、心を許し尊敬できる兄のような存在だったようです。藤圭子は、世の中が勝手に作り上げた自分の虚像を消し去るため、結婚という手段を使って、前川清の元に逃げ込んだといってもよいでしょう。前川清は、持ち前の優しさで、彼女をなんとか庇護しようとしましたが、なんといってもまだ23歳の若さ。

その荷は重すぎ、結局、藤圭子は前川清の元を去り、日本から逃げるようにアメリカへと渡ります。そして、アメリカで出会った音楽プロデュサー、宇多田照實と結婚。生まれたのが、宇多田ヒカルでした。一方、前川清は、藤圭子と別れた10年後、一般女性と結婚し、1男2女に恵まれました。

前川清の長男の前川紘毅は、父親の名前を隠して応募したオーディション「a-motion05」でグランプリを獲得し、歌手デビュー。しかしその後は鳴かず飛ばずで、現在は「解決!ナイナイアンサー」に出演し、前川清への反抗心を告白するなど、まだ2世タレントの域を越えることができていません。

前川清に声質をより近付けるため桑田佳祐が行った荒行とは?

前川清、昭和歌謡史に残るヒット曲の数々

前川清は、嗄れ声のようでいてビブラートが効いた、独特の歌唱法で知られています。デビュー曲「長崎は今日も雨だった」をはじめ、「噂の女」、「そして、神戸」、「中の島ブルース」、「東京砂漠」と、クールファイブの楽曲は、昭和歌謡の定番として、今もカラオケなどで歌い継がれています。

前川清は、その後のJ-POPの大物アーティストたちに多大な影響を与えた!

前川清の歌唱法に憧れて、声質をより近付けるため、ウォッカで喉をうがいし、自宅の部屋にこもって枕に顔を押し付けて大声を出し続けるという荒行を行った、学生バンドの青年がいました。それがサザンオールスターズの桑田圭祐です。1970年代の終わりは、J-POPのまさにカンブリア紀。

矢沢永吉、松山千春、荒井由美、中島みゆき、そして桑田圭祐のサザンオールスターズなど、洋楽のロックやフォークなど、既存の日本歌謡曲に飽き足らず、自らバンドを組み、オリジナル曲を作って歌う若者たちが、一斉に出現し始めたのです。しかし、彼等の音楽には、ロックやフォークだけでなく、60年代、70年代の日本の歌謡曲が色濃く影響していることは明らか。桑田圭祐に至っては、「ひとり紅白歌合戦」という独自ライブを開くほどの歌謡曲好きで知られています。

前川清は、桑田圭祐だけでなく、Mr.Childrenの桜井和寿や福山雅治にもリスペクトされていて、今もソロ歌手として、高い人気を誇っています。

藤圭子の自殺の真相にせまる、沢木耕太郎渾身のノンフィクション「流星ひとつ」

藤圭子という演歌歌手がいたことさえ、忘れ去られていた2006年。アメリカのジョン・F・ケネディ空港で、42万ドル(4700万円相当)の現金を所持していた日本人の中年女性がつかまり、大きな話題となりました。この日本人女性こそ藤圭子で、彼女はそれまでにも大金を持って、アメリカやヨーロッパのカジノでギャンブルに興じていたことが明らかにされます。そして2013年、藤圭子は、新宿の高層マンションから身を投げ、自殺してしまいました。62歳でした。

17歳で芸能界にデビューし、たった2年の歌手活動で、日本の歌謡史に残る伝説となり、20歳で結婚。そしてたった1年で離婚し、アメリカに渡った藤圭子が世に甦ったのは、1998年、J-POPの次世代を告げる宇多田ヒカルの母として。しかし、藤圭子は決して、芸能界、いや日本という国に合い入れることなく、突然の死を迎えます。藤圭子の孤高の謎の死は、彼女がもっとも望んでいなかったであろう、虚構の存在としての藤圭子を、決定的に伝説化してしまいました。

しかし、藤圭子が没後すぐ、ノンフィクション作家、沢木耕太郎によって、台詞だけで構成された異色のインタビュー本「流星」が出版されました。「流星」の中に存在していたのは、伝説ではなく、生身の藤圭子。それでも、藤圭子は、最後まで、本当の自分であることができなかったのは哀しいことです。一方、藤圭子の最愛の人であった前川清は、今では息子といっしょにテレビに出演し、息子の奮闘ぶりを、目を細めて眺めています。人それぞれの運命とは、儚く過酷なものです。

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