千昌夫の名言「マスコミのおもちゃじゃない!」借金3000億円と元妻ジョーン・シェパードの現在

千昌夫の名言「マスコミのおもちゃじゃない!」借金3000億円と元妻ジョーン・シェパードの現在

千昌夫の名言「マスコミのおもちゃじゃない!」過熱報道に啖呵を切る

千昌夫の名言、「俺はマスコミのおもちゃじゃない」。過熱する報道で詰め寄るマスコミのマイクに向かって、千昌夫が啖呵を切ったときに出たものです。

当時、千昌夫に降りかかっていた苦難は、多額の借金と夫婦の不仲。連日続く取材に、かなりイラついていたという千昌夫。もともとは、千昌夫とアメリカ人の妻ジョーン・シェパードは、おしどり夫婦として知られていました。理想の夫婦ということで、大手電機メーカーや、自動車のCM、テレビ番組などに、一緒に出演もしています。

そこに不仲説が浮上したのであれば、マスコミも放っておけません。さらに、不動産業で大きな成功をおさめてきた千昌夫でしたが、一方で、借金の問題があったのも事実でした。

千昌夫の借金3000億円と元妻ジョーン・シェパードの現在!個人向け民事再生法で借金を軽減

千昌夫が歌手を休業してまで専念した不動産業は、バブル期に大成功し、「歌う不動産王」「ホテル王」と称されるほどになりました。ところが、1991年にバブルが崩壊。千昌夫の不動産事業も赤字となり、多額の借金を抱えてしまいます。2000年に、個人事務所「アベインターナショナル」が経営破綻した時点で、千昌夫の負債総額は、1034億円にもなっていました。

会社の債務を、千昌夫が個人保証していたため、1034億円は、そのまま千昌夫の借金となり、最高額で3000億円にまで膨らみます。これは、到底個人で返せる額ではありません。しかし、借り入れ元の銀行が経営破綻し、借金が1000億円程度にまで減り、加えて個人向け民事再生法の力を借りたことで、2002年に「6年間で約1億5000万円を返済すればよい」というところに落ち着いたといいます。

返済の希望が見えてきた千昌夫は、精力的にライブを行い、借金を返済していったようです。
また、1986年の時点で浮上していた妻ジョーン・シェパードとの不仲説は、その後、1988年に離婚という形で決着を見ました。千昌夫の元妻ジョーン・シェパードに支払われた慰謝料は、50億円。離婚後のジョーン・シェパードがどうしているかについて多くの情報はありませんが、日本を離れ、アメリカでレストランを経営しているともいわれています。

千昌夫の娘・ダニエラが美人すぎる!ほくろ除去が転落人生のきっかけだった?

千昌夫の娘・ダニエラが美人すぎる!両親もデビューを祝福

千昌夫は、元妻ジョーン・シェパードと離婚後しばらくして、18歳年下のイギリス人女性アマンダと再婚しました。後妻アマンダとの間に生まれた次女ダニエラが、2009年にモデルデビューしたときには、多くのメディアで取り上げられています。高い身長に、健康的な肌、はっきりとした顔立ちの美人である娘ダニエラのデビューに、千昌夫もたいそう喜んでいたとか。

ダニエラは、もともと小さい頃からモデルになることが夢だったそうで、千昌夫の人脈もあり、日本でのデビューが決まりました。ダニエラの母・アマンダも、娘のデビューを心から祝福。笑顔で花束を贈っていました。

千昌夫のほくろ除去が転落人生のきっかけだった?ほくろ除去後の周囲の反応とは

千昌夫と聞いて、本人よりも、ものまねタレントのコロッケによるものまねを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。千昌夫のものまねの特徴といえば、額のほくろです。ところが、このトレードマークともいうべき千昌夫のほくろは、2000年に手術で除去されていました。

2000年といえば、会社の倒産と、多額の借金を抱えた年。ほくろの除去には、開運の意味もあったのだろうと推測されています。しかし、ほくろを除去したことが、千昌夫の人生を、さらに転落させるきっかけになったのではないかという声も。実際、六星占術で知られる細木数子からも「取らないほうがよかった」と言われています。各種占いでも、「先見の明を表す」とか「金運ボクロ」だといわれる額のほくろ……占いの結果は脇へ置いたとしても、やはり、あのほくろは、千昌夫の顔を覚えやすくする大きな要因だったことは事実。

ほくろのない千昌夫を見て、「普通のおじさん」と評する人まで出る始末で、コロッケは、千昌夫がほくろを除去したあとも、ほくろをつけてものまねをしています。除去したことのよしあしはさておき、なんとも皮肉な結果となってしまいました。

千昌夫が出資したホテルが震災後に再建を遂げた!苦難を乗り越え喜ぶ

千昌夫は、1947年に岩手県陸前高田市で生まれました。高校生の時に、合宿を抜け出して作曲家・遠藤実に頼み込んで弟子入りし、1965年に「君が好き」でデビューします。1967年には「星影のワルツ」がミリオンセラーとなり、1968年の「NHK紅白歌合戦」で初出場を果たしました。その後も、数々のヒット曲を出してきました。

千昌夫の出身地である陸前高田市は、波瀾万丈な歴史を持つホテルがあります。ホテルの名前は「キャピタルホテル1000」。1989年のバブル期に、豪華リゾートホテルとして開業し、千昌夫の経営する会社も、二つ返事で多額の出資をしていたそうです。しかし、バブル崩壊とともに経営は赤字に転落。負債額13億円で経営破綻となりました。

ホテルの経営が第三セクターに引き継がれたことで、なんとか軌道に乗り始めましたが、2011年の東日本大震災が襲います。ホテルは大津波で全壊し、休業を余儀なくされてしまいました。ところが驚くべきことに、その「キャピタルホテル1000」が、2013年に、国の補助金などによって高台に移転し、グランドオープンを果たします。2016年現在のホテル公式サイトには、「この町と一緒に、明日へ向かうことを誓うホテル」と記載。

岩手県のご当地グルメを中心とした料理を味わえるホテルとして頑張っています。陸前高田市は、千昌夫の故郷。その故郷にあるキャピタルホテル1000の再建を、千昌夫も心から喜んでいるに違いありません。

千昌夫の歌は、昭和を代表するメロディとして、今でも多くの人から親しまれ、カラオケなどで歌われています。バブルとその崩壊という、日本経済における象徴的な出来事を経験し、困難を乗り越えてきた千昌夫の生き様が歌声ににじみ出て、多くの人の心に、より深く染みわたるからなのかもしれません。

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