嘉門達夫は笑福亭鶴光から破門されていた!メジャーデビューの裏に桑田佳祐あり

嘉門達夫は笑福亭鶴光から破門されていた!メジャーデビューの裏に桑田佳祐あり

嘉門達夫は大阪出身の元落語家で元祖替え歌芸人

嘉門達夫は、大阪出身でありながら、どこか大阪と相いれない不思議な芸人といえます。1959年生まれで、もう57歳になる嘉門達夫は、大阪の芸能界においては、明石家さんまや島田紳助の後に続く年齢にあたります。

高校在学時に、当時大人気だった笑福亭鶴光の通い弟子となり、卒業後、笑福亭鶴光の内弟子として笑福亭笑光を名乗るように。MBSヤングタウンという人気ラジオ番組にもレギュラー出演し、人気が出始めますが、1880年、鶴光師匠に破門され、所属事務所であった松竹芸能にも契約を解除されました。

破門原因は、酒や女や金でしくじったのではなく、お笑いや仕事に対する考え方の違いからだと伝えられています。鶴光師匠にとっては、よほどクソ生意気で理屈っぽい弟子だったのでしょう。確かに、その後の嘉門達夫の仕事ぶりを見ても、少しひねたところが見受けられます。これが嘉門達夫の芸風であり真骨頂ともいえますが、今一、お笑いタレントとして共感されない弱点でもあるようです。

嘉門達夫がメジャーデビューできたのはサザンオールスターズのおかげだった

師匠に破門された時点で、嘉門達夫の芸能生活は終わっていたかもしれません。しかし、自分を見直すために、アルバイトをしながら全国を放浪していた時にできあがったのが、嘉門達夫独自の替え歌コミックソングでした。サザンオールスターズの人気曲「チャコの海岸物語」の一節を「海パンの中井貴一が腰を振る物語~」などとしたこの替え歌。偶然にも、アミューズ創業者である大里洋吉会長の耳にとまり、サザンオールスターズの楽曲の使用ばかりか、コンサートの前座やつなぎに出ることが許されます。

さらに、桑田圭祐が名づけ親となって、嘉門達夫という芸名が与えられました。以後は、アミューズの関連会社に所属し、サザンオールスターズの押しも効いて、東京でのメディア露出が増え、一気にメジャーブレイク。1991年には「替え唄メドレー」が、82万枚セールスを記録し、翌1992年には、歌手として、紅白歌合戦に出場するという快挙まで果たしました。

嘉門達夫のライブで人気の替え歌ランキング!結婚はしてる?

嘉門達夫の誰もが知っている替え歌は、やっぱり「チャラリー♪鼻から牛乳」

その替え歌ですが、誰もが知っているのが、「チャラリー♪鼻から牛乳」でしょう。この元は、「トッカータとフーガ」というバッハの楽曲です。初期の「アホが見る、ブタのケツ」は、「1日1個は消しゴムをきざんでツブす奴」などと一緒で、学校でのあるあるネタでした。

その発展系とでもいうべき「小市民」シリーズは、「子供ができたら年賀状に写真をのせてしまう。あー小市民」など、まさに小市民の自虐ネタの連呼ですが、替え歌ではありません。やはり、一番乗れたのは「替え歌メドレー」でしょう。嘉門達夫は、当時のヒットソングを、ジャンル問わずで、絶妙に歌い替えてみせています。

その後に生まれた「サザン替え唄大メドレー」などは、元歌に「勝手にシンドバッド」「チャコの海岸物語」「涙のキッス」など、サザンオールスターズ初期のヒット曲全てを網羅。たとえば「勝手にシンドバッド」は、「ララララララ♪レレレレレのおじさん、ゲゲゲゲゲの鬼太郎♪~」といった具合です。

これができたのは、元歌を作った桑田圭祐の、替え歌を面白がって許す遊び心があってこそ。しかし、嘉門達夫の替え歌は、やがて作ることが難しくなっていきます。それは、元歌の使用許可や、著作権のクリアという問題によるものでした。

嘉門達夫49歳での晩婚相手は6歳年下の眼科医

嘉門達夫は、長く独身で過ごし、2008年49歳になった時、6歳年下の眼科医の女性と結婚しています。もともと食へのこだわりが強い嘉門達夫の食事仲間だったうちの1人で、今でも、2人で、ほぼ外食の生活を楽しんでいるそうです。そのコミックソングとは裏腹に、何となく気難しいイメージがする嘉門達夫ですが、結婚相手の女性からは、曲作りに関してアドバイスをもらうことあるのだとか。その成果なのか、2016年の年末には、「食のワンダーランド〜食べることは生きること〜其の壱」というアルバムもリリースしました。

嘉門達夫が「森のくまさん」替え歌騒動に物申す

最近では、著作権や、楽曲の権利を管理するJASRAC自体が話題になることが多くなってきました。2017年に入っても、お笑い芸人パーマ大佐による、童謡「森のくまさん」の替え歌CDが、オリジナル楽曲に日本語をつけた訳詞者である馬場祥弘から「権利を侵害している」と訴えられたとして物議を醸し、話題となりました。

この件は、両者が数日で和解し収束していますが、替え歌の大家である嘉門達夫は、インタビューに対し、「最低限やらなければならないのは、楽曲の権利を管理している出版社への使用許可をとること。曲順なども詳細明確に伝え、OKが出たものに限りCD化している」と回答。

どうやら現代は、嘉門達夫がサザンオールスターズと出会って、メジャーデビューできたような大らかな時代ではないようです。嘉門達夫は続けて、「楽曲を作った人だけでなく、替え歌のネタになる人からもきちんと了解を取ること。社会風刺など辛口なものもあるが、基本的にはみんなが心地よく笑えることが大切である」とも語っています。

東京でブレイクした後、ラジオなどで、何度か大阪回帰を果たそうとしましたが、なかなか思うようにはいかなかった嘉門達夫。大阪にあっては、社会風刺のネタ自体をボケかまして、辛辣な笑いもマイルドにしてしまうところがあります。嘉門達夫は、大阪出身でありながら、その気真面目なネクラさが、大阪になじまなかった芸人といえるかもしれません。

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