山田五十鈴は戦前・戦後を飾る恋多き大女優!一人娘の嵯峨美智子との確執

山田五十鈴の生い立ちと経歴!三大女優と呼ばれるまで!

山田五十鈴は戦前・戦後を飾る恋多き大女優だった

山田五十鈴は、かつての人気時代劇「必殺仕置人」で、三味線引きの女仕事人を妖艶に演じて、往年の大女優としての貫禄を見せつけました。

しかし、彼女が女優として一世を風靡した、戦前~戦後の活躍を知る人は、今ではほとんどいません。山田五十鈴は、1917年生まれ。2012年に、95歳で波乱の生涯を終えています。父は新派の男優、母は大阪北新地の売れっ子芸者で日舞や音曲の名人だった女性で、自らも幼い頃よりこれら諸芸を習っていた山田五十鈴。後年、芸術祭大賞の他、数々の賞に輝いた芝居「たぬき」は、これら諸芸の精進の賜物です。

1930年、13歳の山田五十鈴は、日活の太秦撮影所に入所します。すると、内田吐夢「仇討選手」や伊丹万作「國士無双」「武道大鑑」、山中貞雄「盤嶽の一生」など、当時の名だたる監督の作品に立て続けに出演し、まだ十代半ばでトップ女優に登りつめました。

1934年に大映に移籍した山田五十鈴は、翌年、二枚目俳優・月田一郎の子を身ごもり出産。このとき生まれた女の子が、後に凄艶な美人女優となり、やがて破滅の道をたどる嵯峨美智子です。大映時代の山田五十鈴は、溝口健二監督の「浪華悲歌」「祇園の姉妹」という名作に出演した後、1938年に東宝へ移籍します。

稀代の二枚目俳優・長谷川一夫と三味線弾きの夫婦に扮した、川口松太郎原作・成瀬巳喜男監督の「鶴八鶴次郎」は大ヒット。この長谷川一夫との出会いが、山田五十鈴を舞台女優の道へと誘います。戦前に月田一郎と別れた山田五十鈴は、戦後、衣笠貞之助監督と同棲の後、新劇出身の加藤嘉と電撃結婚。1954年に離婚し、またすぐに俳優の下元勉と結婚しますが、数年で離婚しています。

山田五十鈴が、水谷八重子・杉村春子とともに日本の三大女優と呼ばれた生涯女優としての一生

山田五十鈴は、30代から40代にかけての女盛りを華々しく過ごしますが、この時期は、女優としての充実期でもありました。小津安二郎「東京暮色」、黒澤明「蜘蛛巣城」「どん底」、市川崑「ぼんち」など、戦後の名監督全てと仕事を共にしたといっても過言ではありません。1960年以後は、本格的に舞台に進出。水谷八重子や杉村春子とともに、日本の三大女優と呼ばれるようになります。

月日は流れ、時代はテレビの時代に。「必殺仕事人」に出演した時、山田五十鈴は、すでに60歳を迎えていましたが、さらにその後も30年あまり女優として活動を続け、2000年には文化勲章に輝いています。まさに、生涯を女優に捧げた人生でした。

山田五十鈴の結婚・離婚歴!娘・瑳峨三智子が辿った悲劇とは?

山田五十鈴は生涯4度の結婚と恋多き人生

山田五十鈴は、生涯に4度結婚しただけでなく、多くの恋を重ねた女性でした。それは、相手の地位や名声、インテリジェンス、また相手の美貌まで全て、彼らの持っていたさまざまな才能に惚れたからではなかったでしょうか。貪欲なまでに、その才能を吸収して女優としての糧とする、ある種の女優独特の魔性を持っていたと考えられます。

今でいうならば、さしずめ大竹しのぶのような……。最初に結婚した月田一郎は、法政大学を辞めて松竹蒲田撮影所に入った、都会的な二枚目インテリ俳優でした。大映に移籍してきた彼に、まだ16、7歳だった山田五十鈴は、一気にのめり込んで子供を身ごもり結婚します。

しかし、山田五十鈴が、溝口健二監督作品などに出演して大女優としてステップアップしていったのに対して、月田一郎は俳優として大成できず、1942年、2人は離婚します。そしてすぐに、映画プロデューサーの滝村和男と結婚しますが、この結婚も1年あまりで破局しました。

山田五十鈴は、戦後すぐ、明治の大女優・松井須磨子を描いた「女優」(1947年)に出演。この作品を演出した、20歳も年上の衣笠貞之助監督と同棲していましたが、1950年になると、新劇出身の俳優で、晩年の枯れた老人役などでも有名な加藤嘉と電撃結婚。日本的な女優の代表であった彼女が、加藤嘉の影響で左翼運動に身を投じ、一時は人民女優と称されて、映画界からレッドパージの対象となります。

しかし、その熱も冷めると、1954年に離婚。その後すぐ、劇団民藝の創立メンバーである下元勉と結婚しますが、数年で離婚してしまいます。そして1960年代以降、映画や舞台にて円熟期を迎えた山田五十鈴に、表立った男性関係はなくなり、以後死ぬまでの半生を芸道に邁進しました。

山田五十鈴と一人娘の嵯峨美智子、2人の確執が生んだ悲劇

山田五十鈴にとって、人生の大きな禍根は、元夫・月田一夫の元で育った娘・嵯峨美智子でした。嵯峨美智子は、両親の美貌を受け継ぎ、この世のものとも思われぬほど妖しい美しさを秘めた娘に成長し、1952年、17歳で東映からデビューします。しかし2人は、撮影所で顔を合わせても、嵯峨美智子が実の母を「山田さん」と呼び、山田五十鈴もまた実の娘を、他の新人女優と同じく厳しく接したようです。

嵯峨美智子は、その凄艶な美貌でカルトな人気を誇り、将来が期待されましたが、大女優・山田五十鈴の娘としてのプレッシャーと確執に耐え切れなかったのでしょうか。金銭トラブルや薬物中毒、失踪を幾度も繰り返し、やがては芸能界から消え去ります。そして最後は、タイのバンコクでクモ膜下出血のため、独り客死しました。57歳でした。その時、山田五十鈴の心中は、いかばかりであったでしょうか。

山田五十鈴の隠し子はあの太地喜和子?!驚愕の真相

山田五十鈴と娘嵯峨美智子との確執と悲劇は、広く一般知られていますが、芸能界にまことしやかに伝えられる驚愕のエピソードが、もう1つあります。昭和の時代に映画・演劇界を席巻し、また恋多き女優としても名を馳せた太地喜和子が、山田五十鈴の隠し子だったという話です。

しかし、この話の出どころをたどると、太地喜和子本人が、事あるごとに、「私を誰だと思ってんの。あたしの母親は山田五十鈴なのよ」と語っていたからのようです。確かに太地喜和子は、養父母に育てられ、実の親を知りません。しかし、養父母は、この件を完全否定しています。

その女優としての華や恋多き生き様が、山田五十鈴とよく比較されもし、本人もまた山田五十鈴を敬慕していた節もあった太地喜和子。しかし、決定的に2人が異なるのは、山田五十鈴は、決して恋に溺れることなく女優を貫いたのに対し、太地喜和子は、常に恋にすがり愛に溺れ、最後は、伊豆の海でまるで自死したかのにように亡くなったことです。

1993年、享年48歳。それは、山田五十鈴が色恋から離れ、芸道に邁進し始めた歳でした。京都では、長く撮影所近くのしもた屋に独りで住んでいた山田五十鈴。撮影が終わると、お気に入りの若い制作作家が家まで送り、時には、彼女が眠りにつくまで酒の相手をしていたとか。

そして1980年頃には、京都の自宅を引き払い、余生を東京の帝国ホテルの一室で暮らしていたそうです。女優として90年近くを生き、人気と名声をほしいままにした山田五十鈴の晩年は、恐ろしいほどの孤独との闘いでした。今、女優と呼ばれる人たちの中で、彼女ほどの気概と覚悟を持ちあわせた女優は、いったいどれほど居ることでしょうか。

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