堀内恒夫が監督時代の巨人がダメすぎたワケ!清原和博との確執とは?

堀内恒夫が監督時代の巨人がダメすぎたワケ!清原和博との確執とは?

堀内恒夫が突然巨人軍監督に就任した理由は?!

堀内恒夫は野球選手現役時代、巨人軍のエースとして鳴らしますが、「悪太郎」という異名がつくほど態度が大きく、口が悪かったことでも有名です。1983年引退後は、野球評論家を経て、巨人軍の投手コーチをしていた堀内恒夫。2001年には長嶋監督の後を受けて、ジャイアンツの監督に就任した原辰徳が、2003年オフに、突然、監督を辞任してしまいました。

一説には、原辰徳監督と球団社長との確執が原因といわれる中、次期監督として、急きょ白羽の矢が立ったのが堀内恒夫です。以後2年間、堀内恒夫がジャイアンツの監督を務めますが、2003年のペントレースは3位、2004年は5位と成績は散々。当然、批判の矛先は監督の堀内恒夫に向かいます。堀内恒夫監督時代の巨人が結果を出せなかった理由には、とにかく逆転負けが多かったことや、獲得した外国人選手の見込み違い、主力打者であったローズとのコミュニケーション不足など、さまざまな原因が上げられました。

さらに根深い問題は、清原軍団と呼ばれる清原和博以下一部選手たちと、チームとの解離です。2005年8月4日の広島戦では、試合前にヘッドコーチの山本巧児から、打順が7番であることを伝えられた清原和博が大激怒。清原和博は、試合前にベンチから電話をかけながら、取材の記者たちに聞えよがしに、「今日な、7番やで7番!阿部(慎之助)より下や!」と喚き散らしました。

そして当日、ホームランを打った清原和博は、監督やコーチ、選手たちとハイタッチしないという事件を起こしています。しかし、なんといっても一番の不振の原因は、堀内恒夫が選手としては一流であっても、「悪太郎」と呼ばれていたほど性格も悪く、監督としての度量に欠けていたため。巨人球団が堀内恒夫を監督に起用したこと自体、問題があったとさえいえます。結局、堀内恒夫は、特別顧問として球団に残った原監督再起用のつなぎでしかなかったといえるでしょう。

堀内恒夫は巨人V9に貢献したエースピッチャーだった

堀内恒夫は、言わずと知れた巨人軍のエースピッチャーです。当時の巨人軍人気を示す言葉に、「巨人、大鵬、卵焼き」があります。意味は、子供の好きなもの。野球なら巨人、相撲なら大鵬、おかずなら卵焼き……こんな言葉も、はるか昭和の昔となりました。

1965年から1973年まで、まさに日本が高度成長時代の頂点を迎えていた頃、堀内恒夫属する読売巨人軍は、ペナントレース、日本シリーズとも9年連続優勝を果たし、子供たちの人気は絶頂を極めていました。この9連覇に貢献したのが、1965年、高卒ルーキーとして巨人軍入りし、開幕13連勝を含む16勝を記録、最優秀防御率、最高勝率、沢村賞、新人王のタイトルを総なめにした堀内恒夫です。

堀内恒夫は、1948年生まれの68歳。その堀内恒夫が、2010年の参議院選挙に山梨県から出馬。比例代表の次点で落選しましたが、3年後、当選者死亡による繰り上げ当選を果たし、今では自由民主党所属の参議院議員になっているのですから、人の人生とは分からないものです。

堀内恒夫が名球会を退会!いつの間にか参議院議員に!

堀内恒夫は、なぜ名球会を退会したのか?!

堀内恒夫は巨人引退後、昭和生まれで、投手ならば200勝か250セーブ、野手ならば2000本安打を記録した選手だけが入会できる「日本プロ野球名球会」に入会していました。しかし、堀内恒夫に加えて元巨人軍の先輩であり名球会の創設者である金田正一、中日で活躍していた谷沢健一の3人が、数年前になぜか名球会を退会しています。実は、この「日本プロ野球名球会」は、1978年、金田正一が私的に立ち上げた、プロ野球選手OBの互助的組織。

1981年から税務対策のためか、組織を「日本プロ野球名球会」を商号とする「株式会社」としていました。しかし、創設者で取締役に収まった金田正一による「日本プロ野球名球会」の私物化が問題とされ、金田正一が取締役を辞任。と同時に、「日本プロ野球名球会」は、王貞治を理事長とする一般社団法人として再出発することになりました。どうやら、プロ野球選手OBの中でも、いろいろ派閥があるようで、新生の日本プロ野球名球会の名簿には、金田正一、谷沢健一、そして堀内恒夫の名は見当たらなくなっています。ここでも、堀内恒夫の「悪太郎」ぶりが発揮されているようです。

堀内恒夫2010年自由民主党から参議院選挙に出馬の怪異

堀内恒夫が、2010年に参議院の比例代表として自由民主党から突如立候補した時は、プロ野球ファンだけでなく、誰もが「なぜ?」と驚きました。2010年の参議院選挙は、民主党鳩山由紀夫内閣が沖縄の基地移設問題など、さまざまな失政を重ね、支持率を急速に落としていた時期。自民党としては、なんとしても民主党政権を打倒したい選挙でした。しかし、ではなぜ、政治には全く門外漢の堀内恒夫かというと、そこには読売巨人軍だけでなく、読売新聞グループに君臨するナベツネこと渡辺恒雄の存在が。

渡辺恒雄は、時に巨人軍OBさえ、自分の政治の駒として使う政界の黒幕です。野球界のOBの間では、「堀内恒夫の故郷である山梨県からの比例代表、しかもナベツネさんが擁立したのだから、当選は間違いないだろう」と思われていたといいます。フタを開けてみれば、次点であれ、結果、堀内恒夫は議席を確保したのですから、ある意味、恐ろしいことです。実は、堀内恒夫のジャイアンツ監督就任も、渡辺恒夫の鶴の一声であったのだとか。堀内恒夫は、「悪太郎」と呼ばれながら、実は、自分より強い者にはめっきり弱い人なのかもしれません。

堀内恒夫が参議院選挙改選を迎えるキャッチフレーズは「スポーツで日本を元気にしたい」

堀内恒夫は、晴れて自民党の参議院議員となりましたが、議員としての評価はいかがなものでしょうか。堀内恒夫は昨年4月の予算委員会に初めて出席し、安倍首相を相手に初登板しています。本人によると、「打者よりも近い距離に首相がいるんだ。びっくりするね。あれは緊張するって」と、かなりビビっていた様子。「首相は長嶋さんに感じが似ている。」「久しぶりに、おっと思った」と、安倍首相を長嶋茂雄に例えたかと思えば、「ルーキーの時は相手打者に緊張しなかった。

だって、こっちにはON(王貞治、長嶋)がいるんだぜ。対戦する打者よりも、後ろで守っている人たちに緊張したもんだよ」と、初登板のインタビューに、野球に例えて答えていましたが、肝心の質問の内容については、全く話はありませんでした……。以後は、党内で、スポーツ関連事業の推進に関わってきたらしい堀内恒夫は、今年夏の参議院選挙で改選を迎えます。自らのキャッチコピーは、「スポーツで日本を元気にしたい」。そしてサブコピーには「~俺の若い頃は野球しかなかった。

若い人にはスポーツを通じて、もっともっと多くの友人を作って欲しいんだ」とあります。確かに、どんなスポーツにおいても、技術がどんなに優れていても、チームワークと友達を大切しなければスポーツをやる意味がありません。さすが「悪太郎」の堀内恒夫、自分をよく分かっていらっしゃるようです。

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