池乃めだかのカニバサミとは?低身長ネタなどギャグの多さは吉本新喜劇イチ!
池乃めだか145cmという小さい体と決め台詞を組み合わせたギャグワールド
池乃めだかは、1943年生まれの73歳。「小さいおっさん」として、全国的知名度を誇る、吉本新喜劇のベテランお笑い芸人です。ギャグの多さは、吉本新喜劇イチとの呼び声も高く、たとえば、舞台で喧嘩を始める時、急にネクタイをはずし、「俺がネクタイ外したらどうなるかわかるか!」と凄む。
相手が「どうなんねん?」と突っ込むと、ネクタイを頭から垂らして「長さが一緒や!」。相手にボコボコにされると、「よっしゃ、今日はこれぐらいにしといたるわ」。脅されると、「お願えでございますだ。お代官様!」と、時代劇の農民のように叫んですがりつく。また急に、「そうだ!あれはUFOだ。そうだろ、保安官?」と、映画の吹き替え調でしゃべり出し話をそらすなどなど。
145cmという小さい体と決め台詞を組み合わせた、まさに「めだかワールド」というべきギャグの宝庫です。女性をカニバサミにし、「飛騨の山中に篭ること十余年、あみ出したるこの技、名づけてカニバサミ。もがけばもがくほど身体にくい込むわ!どうや!?動けるもんなら動いてみぃ〜!」と大見栄切っても、女性は、池乃めだかを平気で引きずっていくという「カニバサミ」は、めだかギャグ、珠玉の大技といったところでしょうか。
池乃めだかの芸歴を振り返ると、背が低いというということだけで存在そのものが面白くなるという生まれながらのコメディアンではなく、芸をこつこつと磨き上げた苦労人であることが分かります。
池乃めだかの吉本新喜劇デビューは意外に遅かった
池乃めだかの芸歴をみてみましょう。芸能界入りは意外に遅く、中学校を卒業して8年間働いた後の、23歳のときでした。最初は、海原かける・めぐるとして漫才デビューし、それなりに活躍していましたが、相方が廃業したため、1976年、吉本新喜劇に参加。池乃めだかは、すでに33歳になっていました。
しかし、吉本新喜劇では、台詞もない子役ばかりだったため、意欲を失くしてしまった池乃めだか。もう一度漫才に戻ろうと考えている最中に、間寛平との猿と犬との掛け合いが爆発的人気となり、新喜劇での地位を確立します。ところが皮肉なもので、時代は漫才ブーム。
吉本興業は、1989年、新喜劇の存続を賭けて「新喜劇やめよっカナ!?キャンペーン」を始め、若手や若手が登用される中、多くのベテランが新喜劇から去っていきました。そんな中でも吉本新喜劇に残った池乃めだか。逆に、これまでの鬱憤を晴らすかのように、さまざまなギャグを連発し、人気者となりました。
池乃めだかの両親と極貧な生い立ち!病気で大手術していた!
池乃めだかの極貧話は大阪芸人の王道
池乃めだかは、小さい時に父と死別し、病気がちの母を抱えての極貧生活を送っていました。兄は、貧しさに耐え切れず蒸発したため、池乃めだかは、家計を支えんと、中学生の時からアルバイトをしています。学業は優秀だった池乃めだかは、周りから高校進学を勧められ、一旦は定時制高校に入学。
しかし、結局断念し、在阪大手の電器メーカーの工場に勤めます。池乃めだか青年は、8年間勤め上げ、やっと生活も安定したものの、生来の生真面目ゆえ、上司が新興宗教をしつこく勧めてきたことから、とうとう会社を辞めてしまいます。しかし、たとえ貧困悲惨な境遇であっても、学校や職場で「面白い奴」と評価されると、周りは、何の根拠もなく、「芸人でもなったら、ええやんか」と、褒め言葉とも揶揄ともつかないことを平気でいいます。
そして、結構その気になって芸人になってしまう若者が多いのが、今も昔も大阪という街。こうして池乃めだかは、23歳にして、芸人を目指しました。「ホームレス中学生」を書いた「麒麟」の田村裕を待つまでもなく、一家離散や極貧など、悲惨な子供時代を過ごした大阪の芸人は、師匠連中から若手に至るまで腐るほどいます。今や、「小さいおっさん」として大人気の池乃めだかもまた、そんな1人です。
池乃めだかは未破裂性脳動脈瘤で大出術をしていた!
池乃めだかは、今や絶好調ですが、2011年末に、健康診断を受けた際、頭部に未破裂性脳動脈瘤が発見されました。しかし、2012年4月に大手術を受けて、事なきを得ています。吉本新喜劇は、今また、新たな人気を誇っていますが、新喜劇の古き良きテイストを残しながら、さらに進化を続ける「小さいおっさん」池乃めだかは、吉本新喜劇における「進撃の小人」というべき、偉大な存在です。
池乃めだかが戦友・井上竜夫の死を悼む
池乃めだかが、吉本新喜劇の重鎮、井上竜夫の通夜に参加し、涙を見せました。井上竜夫が、高度肺気腫のために亡くなったのは10月5日。74歳でした。全国ネットや東京ではほとんど話題にならなかったかもしれませんが、「竜爺、亡くなってんてなあ」「そうか。そりゃ残念やなあ」と、その日の会話が始まるほど、「竜爺」こと井上竜夫は、大阪の人々に愛された存在でした。
「おじゃましまんにゃ〜わ」に始まって、舞台の上でボケたおす爺さん役がはまり役だった井上竜夫。高校の時に演劇に目覚め、松竹新喜劇の往年の名優であった、曾我廼家五郎八の元に入門した後、1963年に吉本新喜劇に入った、ベテラン中のベテランでした。池乃めだかは、通夜会場に飾られた、昔のABCテレビ「あっちこっち丁稚」の写真を見て、あらためて、井上竜夫が亡くなってしまったことを実感したそうです。
「竜爺は、この時ご隠居役で。後で聞いたら、まだ32歳やったらしい。グッときました。2歳年上やけど、新喜劇としては、17、18年先輩。それでも一緒に戦ってきた先輩という感じやった」と、感慨深げに語っていました。「新喜劇やめよっカナ!?キャンペーン」で、花紀京や岡八郎ら、多くのベテランが新喜劇を去っていった当時。
池乃めだかにとって、今や80歳を迎え最古参となった桑原和夫や井上竜夫は、共に新生吉本新喜劇に残り、けん引してきた、まさに戦友といえる仲でした。吉本新喜劇はこれからも、常に変革を遂げながら、その時代時代の大阪の笑いを生み出していくことでしょう。