手塚眞の父・手塚治虫漫画家デビュー秘話!ルーツは平安時代の武将!

手塚眞の父・手塚治虫漫画家デビュー秘話!ルーツは平安時代の武将!

手塚眞の父は漫画の神様!手塚治虫漫画家デビュー秘話!

手塚眞は、ビジュアリスト・映像作家として活躍しています。その父といえば……漫画の神様ともいわれる手塚治虫。「鉄腕アトム」「ブラックジャック」といった数々の名作を残し、ストーリー漫画の世界を自ら切り開いていった手塚治虫の功績は大きなもの。そんな、手塚治虫ですが、漫画家になる前は、実は医大生で、医師免許も取得しています。

戦時中、医学の勉強をする傍ら、漫画を描いていた手塚治虫。戦後に復員した父親は、病気のため仕事に行けなくなり、手塚家の家計は苦しくなるばかり。母親からの「自分の好きなほうをやりなさい」という声に背中を押され、家計を支えたいという思いも抱きながら、漫画家デビューを決意したのです。手塚治虫は、自ら書き溜めた漫画原稿を出版社に持ち込み、デビューに至ります。

手塚眞や手塚治虫をうんだ手塚家のルーツは平安時代の武将!

手塚治虫、手塚眞と、親子二代にわたって、漫画や映像という創作の世界で活躍する才能を生んだ手塚家。そんな手塚家には、江戸時代にかかれた家系図が残されており、それによると、平安時代の武将・手塚光盛がルーツ。手塚光盛は、信州、現代の長野県の生まれといわれており、今でも長野県・須川には、手塚光盛の末裔とされる人々が暮らす集落があります。

手塚眞は、長野県に親戚はおらず、手塚家のルーツについて、これまで詳しいことはほとんど知らなったそうです。しかし、須川の安楽寺には、手塚光盛の末裔である「手塚吉兵衛」の位牌があり、手塚眞が持っている手塚家の家系図にも同じ「手塚吉兵衛」の名前があることから、手塚家のご先祖様が、安時代の武将・手塚光盛だったことは間違いなさそうです。

手塚眞の髪が真っ白なのはなぜ?東京経済大学では何を教えているの?

手塚眞の髪が真っ白なのはなぜ?前は金髪だった!

手塚眞は、高校生の頃から、映像作家として活躍してきました。手塚眞といえば、以前は金髪のヘアスタイルがトレードマーク。当時、金髪は珍しく、かなり目をひく見た目だったのは間違いありません。父の手塚治虫がベレー帽をかぶった姿がトレードマークだったのと同じように、手塚眞の金髪も認知されていた感はあります。

しかし、そんな手塚眞も54歳。年齢とともに白髪が増えたのでしょう。ビジュアルが、金髪から白髪へと少しずつスライドしていっています。わざわざブリーチして金髪を維持しなくとも、白髪でも十分インパクト大の手塚眞。金髪の頃の雰囲気とあまり変わらないともいえます。

手塚眞は東京経済大学では何を教えているの?

手塚眞には同性同名の人物がいます。東京経済大学の教授で、農業経済について研究している人物です。食糧・資源問題について、学生に教えているようですが、ビジュアリストの手塚眞とは全くの別人。手塚眞が大学で教鞭をとって、アート等について学生に教えていても、不思議ではないような気はしますから、うっかり勘違いしてしまいそうですが、東京経済大学の手塚眞教授とは属するジャンルが全く違います。実際、ビジュアリストの手塚眞は、現在、教育活動は行っていないようです。

手塚眞は漫画の神様・手塚治虫を超えられる?

手塚眞は、漫画家として活躍する父・手塚治虫の長男として、1961年に生まれます。当時の手塚治虫は多忙を極めていました。しかも、手塚眞の誕生の年にアニメーション制作会社「虫プロダクション」をたちあげたばかり。昼夜を問わず、漫画の執筆とアニメの制作に明け暮れていたといいます。そうして制作されたアニメ「鉄腕アトム」は、最高視聴率40%を超える大ヒット。一時は「虫プロダクション」は400人をこえる大所帯となるほどでした。

息子の手塚眞は、幼少期、そんな売れっ子漫画家であった父の手塚治虫と、ほとんど一緒にすごした記憶がないといいます。当時の手塚眞は、父の描いた漫画よりも、水木しげるの描く「ゲゲゲの鬼太郎」等の妖怪漫画に夢中。虫プロダクションが制作したSF作品「W3」よりも、円谷プロダクションが制作した特撮番組『ウルトラQ』が好きだったといいます。

これについて、手塚眞は「嫌いだとかつまらないというより、身近すぎていつでも観られるという印象を持っていたからです」と自らの著書の中で語っています。そうはいっても、手塚眞に偉大な父の影響があったのは間違いありません。それだけ身近に漫画やアニメといった創作の最前線の現場があったことが、手塚眞に大きな影響を与えます。

手塚眞は成蹊高等学校に在学中、8mm映画『FANTASTIC★PARTY』を制作。初めての本格的な映像制作であったにも関わらず「日本を記録する8mmフェスティバル」で、高校生部門特別賞を受賞。その後に制作した短編作品も「ぴあフィルムフェスティバル」で入選を果たします。すい星のごとく現れ、才能を見せつけた手塚眞は「高校生作家」として、注目を集めました。

その後、手塚眞は日本大学藝術学部映画学科に進みますが、執筆活動や映像制作で多忙を極めて退学。長編映画やショートフィルムの制作、イベントプロデュースといった多岐にわたる活動を行ってきました。1999年には長編映画「白痴」で、ヴェネツィア国際映画祭に出品。父・手塚治虫の漫画家という道とは異なりますが、その才能は、映像制作という分野で十分に発揮され、評価されているようです。

一方で、手塚眞は、手塚治虫の長男として、手塚治虫作品の著作権の管理等の活動も行っています。宝塚市立手塚治虫記念館や、東京都江戸東京博物館での「手塚治虫展」、シンポジウム「手塚治虫アカデミー」等のプロデュースを通じて、父の作品を次の世代に広めていくことにも努めているようです。

漫画と映像制作という、ジャンルの違いはあれど、創作という意味では近い世界で活躍をすることを選択した手塚眞。きっとデビューを飾った若い頃は、偉大な父に対する複雑な思いもあったことでしょう。年齢を重ねた現在、父の功績を素直に認めることができる境地にいたったのではないでしょうか。

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