美輪明宏の愛溢れる名言集!細木数子を批判したワケとは?
美輪明宏の厳しさと愛の溢れる名言集!
美輪明宏は、紅白歌合戦でも披露した「ヨイトマケの唄」が、もはや伝説化しています。泣く子も黙るその存在感は、厳しさの裏に見える、愛あふれる名言にも表れています。例えば、「花は優しい。見る人を慰めて何も見返りを求めない」は、周囲に要求ばかりをする人間の醜さをえぐりだしています。
また、「孤独とは物事を深く考えるチャンス。友達が多い事は必ずしも幸せではない」という名言は、SNSに友人と盛り上がっている様を日々アップする人々の薄っぺらさを見透かし、同時に孤独な人々への愛にもあふれているかのようです。さらに、「財産、知性、知名度……不完全な女ほど男に対する要求が多い。殿方は美しければ結構。そう言えるのが一流の女」という名言には、耳が痛くなる女性も多いのではないでしょうか。
美輪明宏が一刀両断した占い師・細木数子!批判したワケとは?
美輪明宏といえば、スピリチュアルブームに火をつけたテレビ番組「オーラの泉」も外せません。霊能力にすぐれ、人のオーラや前世を観ることができるという美輪明宏。しかし、同じ霊能力者でも、「地獄に落ちるわよ」の決め台詞で知られた占い師・細木数子については、名前こそ出しませんが、「地獄に落ちるわよ、などと言って、人を恐怖に陥れるような人間には占い師の資格はない」と批判。人を脅すようなことを言い、高い鑑定料をとる細木数子のやり方は許せなかったようです。
一方の細木数子は、爆笑問題の太田光に美輪明宏についてコメントを求められたものの、「恐れ多くてねえ」と答えるのみ。辛口占い師の細木数子も、美輪明宏にはかなわなかったようです。
美輪明宏の霊感は本物か?待ち受け画像の効果が気になる!
美輪明宏の霊感は本物!?あの作家の悲劇的な未来を予言!
美輪明宏は、細木数子の霊能力を一刀両断しましたが、美輪明宏本人の霊感は本物なのでしょうか。有名なのは、作家・三島由紀夫の割腹自殺を予言したという伝説です。三島由紀夫が自殺した年の正月、美輪明宏は、三島由紀夫に、226事件をおこして死刑となった青年将校「磯部浅一」の霊がついている助言しました。そして同年、三島由紀夫は割腹自殺。この証言は、信憑性が限りなく高いようです。
また、いわゆる霊能者として、占いや相談等を受けている本業の方から見ても、美輪明宏の霊感はかなり高く、多数いる占いを本業としている方よりも、すごい霊感の持ち主として見られているといいます。
美輪明宏の待ち受け画像で金運アップ!?効果が気になる!
美輪明宏の霊感の恩恵にあやかれるとして人気なのが、美輪明宏の待ち受け画像です。美輪明宏の写真を待ち受け画像にすると、運気があがるといわれています。特に金色の服を着た美輪明宏の画像は、金運があがるといわれ、一番人気。他にも、恋愛運、仕事運といったものに適した待ち受け画像もあり、ネット上では、運気があがった宝くじがあたった、バイト代が増えたといった体験談が見られますが、信じるか否かは自分次第でしょう。
美輪明宏は逆境に負けない!ホームレスから伝説になるまで
美輪明宏がこれまでに成し遂げた功績……歌手、俳優、作曲家、演出家、コメンテーター、エッセイストといった活動をながめると、ありとあらゆる分野で、活躍しているのが分かります。才能にあふれ、今も現役で八面六臂の活躍を見せている偉人・美輪明宏ですが、すでに御年81歳。生ける伝説といわれるタレント・黒柳徹子が83歳ですから、ほぼ同年代。黒柳徹子と同様に、美輪明宏がテレビで活躍する姿を見ていても、頭の回転の速さ、その発言の的確さは、とても80代とは思えません。しかし、そんな美輪明宏も、若い頃は、不遇を味わい、ホームレスまで経験したといいます。
美輪明宏は、1935年長崎生まれ。歌手を目指して、15歳で国立音楽高等学校へ進学するため上京しますが、ほどなくして実家の事業が傾いたため退学。困窮した美輪明宏は、新宿駅でホームレスをしたとそうです。今の神々しい姿からは想像すらできません。それでも、美輪明宏は、諦めず自分で道を切り開きます。銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」の美少年募集の張り紙に応募し、ほどなく銀巴里と専属歌手契約を結んだのです。
美輪明宏のステージは次第に人気を得て、感度の高い文化人を魅了していきます。その頃、美輪明宏が交流を深めたのは、三島由紀夫、寺山修司、吉行淳之介、大江健三郎、遠藤周作といった一流どころばかり。やはり、分かる人には分かる魅力が、美輪明宏にはすでに備わっていたのでしょう。
1957年には、自ら詩を翻訳したシャンソン「メケメケ」が大ヒット。自身でプロデュースしたレース地のワイシャツをまとったユニセックスなスタイルで歌う美輪明宏の姿は、当時としては衝撃的でした。その妖艶な美しさを、三島由紀夫は、「天上界の美」と称え、マスコミは「神武以来の美少年」と表現しました。
しかし、その後、美輪明宏が同性愛者であることを告白すると、世間は手のひらを返したようにバッシングし、表舞台から姿を消します。当時、美輪明宏は自ら作詞作曲を行っており、今の美輪明宏の代表曲ともいえる名曲が生まれていましたが、レコード会社から見向きもされなかったそうです。
それでも、美輪明宏の才能を愛し、活動を支える存在が絶えることはありませんでした。「上を向いて歩こう」等で知られる作曲家の中村八大の支援を受け、1963年には、全て自ら作詞作曲した演目でリサイタルを開催。1964年にはあの「ヨイトマケの唄」も初披露し、ついにレコード化されるなど、美輪明宏に再度注目が集まります。
「ヨイトマケの唄」は、紅白歌合戦を観ても分かるように、現代でも多くの人々の胸を打つ名曲です。50年以上前の曲なのにもかかわらず、決して古びないのですから、それだけ美輪明宏のメッセージが普遍性を帯びているのでしょう。齢80を超えた今も、ハリのある声で、人々の心を動かすような情熱的なステージを見せてくれる美輪明宏のすごさにも圧倒されます。
不遇な時期を乗り越え、不死鳥のように蘇った美輪明宏。紅白での「ヨイトマケの唄」が毎年見られるように、これからも、美輪明宏にはできるだけ長く生き続けていただきたですね。