黒沢年雄の東宝入りが豪快すぎ!本名やプロフィールは?
黒沢年雄は東宝期待の第2の三船敏郎だった!
最近は、「意識高い系」と称される、上昇志向は強いけれど、ひ弱で頭でっかちな若者が多いようです。かつては、地頭もよく、腕っぷしも強い青年が、「有名になって、金持ちになる」という超リアルな夢に向かって、やみくもに驀進していました。
デビュー当時の三船敏郎を彷彿とさせるワイルドな風貌の青年は、半世紀の時を経て、テレビに出る時はいつも、タートルネックのセーターにニット帽をかぶって、目をくりくりさせながら話す可愛いオジサンになりました。そう、俳優の黒沢年雄です。
黒沢年雄の人生ここ一発!東宝ニューフェイス面接合格術
黒沢年雄は、本名・黒沢年男。神奈川県出身で、1944年生まれの73歳です。高校を卒業した後、「有名になって、金持ちになる」ための一番の近道として、俳優を目指します。当時は、まずは生活するために訪問販売セールスマンや、ウェイター、トラックの運転手などを転々としながら、あり余るエネルギーを喧嘩で発散していたとか。
そして1964年、東宝映画第4期ニューフェイスに応募。何千人もの応募の中からたった1人合格し、見事スターになるチャンスをつかみました。しかし、黒沢年雄はただラッキーだったのではありません。幾度かの面接で、美人女優の新珠三千代を相手にしたときは、ただ恥ずかしがるばかりで面接官に怒られると、「こんな綺麗な人に声をかけられて、素直に答えられるほど、僕は人間がすれてない!」と返答。
最終面接にはわざと遅れていき、土下座して謝った最後に、「俺を取らなかったら映画界の損失になります!」と大見得を切ったそうです。若くしてチャンスをつかむには、才能だけではなく、集中力や機転も必要なのかもしれません。
黒沢年雄の代表作品って何?妻や娘はどんな人?
黒沢敏雄は岡本喜八など東宝の名監督たちの作品に数多く出演していた!
東宝に入ってから、黒沢年雄は、岡本喜八や福田純、西村潔、松林宗恵など、名監督の作品に数多く出演します。しかし、そのいかつい風貌からか、野性的で無口、一本気な青年といった、まるで第2の三船敏郎といった役柄ばかり。黒沢年雄本来の茶目っ気や明るさが活かされることはありませんでした。
また本人も、役者としての演技の幅が狭いことを大いに自覚していたようです。それでも、岡本喜八監督「日本の一番長い日」での一途な青年将校役や、「死ぬにはまだ早い」「野獣都市」「白昼の襲撃」など、一連のハードボイルド作品は、今見ても新鮮で魅力的です。
黒沢年雄の妻はモデルで一人娘は二世タレント
黒沢年雄は1976年、猛烈なアタックの末に、モデルの街田リーヌと結婚しました。一人娘の黒沢レイラは、ご多聞に洩れず、一時期二世タレントとして活動します。2003年には、単身渡米してアメリカ進出を図りますが、2012年に、現地で知り合ったアメリカ人と結婚。今は現地で暮らしています。
また、「3年目の浮気」が大ヒットしたヒロシ&キーボーの黒沢博は、黒沢年雄の弟です。黒沢年雄も歌手としてデビューしていて、その渋い低音で、1975年「やすらぎ」や、なかにし礼の過激な歌詞が物議を醸した1978年「時には娼婦のように」が大ヒットしています。
黒沢年雄が8回がんから生還してがん患者に力説すること
最近の黒沢年雄は、もっぱら素のキャラクターで、旅番組のリポーターや、バラエティ番組に出演。その天真爛漫ぶりがうけているようです。それに加え、これまでにがんを8回も患いながら、それに打ち克ってきたという体験も大いに注目を集めています。
黒沢年雄が言うには、がんを治すためには、絶対に医者を信じること。水で治るとか、サルのなんとかで治るとか、祈とうで治るなどといった民間療法などは一切信用せず、医者との信頼関係を築くことが第一だと力説しています。実は、黒沢年雄がトレードマークのニット帽をかぶるようになったのは、1992年に大腸がんが発覚した時、抗がん剤で髪が抜けるのをカモフラージュするため、髪を短く刈り込んでからだそうです。
黒沢年雄は2010年に、「二流の芸能人が、何度がんになっても笑って生きている理由」を出版。多くのがん患者やその家族の励みとなっています。映画全盛期に映画界に入りましたが、大スターになることはできなかった黒沢年雄。しかしその後、テレビでは、「ハングマン」などのアクションドラマで人気を得て、今ではバラエティタレントとして活躍しています。黒沢年雄の「有名になって、金持ちになる」という若き日の夢は、どうやら叶えることができたようです。