パンチ佐藤の名言、パンチ語録が懐かしい!嫁、娘は?
パンチ佐藤の名言「自分の心は一つです!」!パンチ語録にファンも大爆笑
現在はタレントとして活躍するパンチ佐藤が、元プロ野球選手であることを知らない方も増えてきたかもしれません。昭和から平成へと元号が代わり、球界転換期の1989年オフのこと。時代に逆行するかのようなパンチパーマで決めた、いかにも濃い風貌の個性派ルーキーが登場しました。
その男こそ、パンチ佐藤です。男気みなぎるキャラクターで、次々に飛び出す独自の“パンチ語録”もあいまって一躍人気者になりました。プロ野球での現役期間はわずか5年間ですが、その強烈な個性と存在感は、今もなお語り草となっています。
プロ入りするまでは無名に近かった彼を一躍有名にしたのは、ドラフト指名時の会見で飛び出した「自分の心は一つです!」でした。
実は、この名言には、「ちょっと会社(熊谷組)の方と相談して決めることですけども」という前段があります。それに続けて、ぶち上げたことで、会見に詰めかけた報道陣は大爆笑の渦となりました。個性的なトークで人気者になったパンチ佐藤に、当時は地味な印象が強かったオリックス球団の宣伝役を期待されたのは、自然の流れだったと言えるでしょう。
取材依頼が来ればできるだけ受け、ファンサービスにも積極的だったパンチ佐藤。キャンプイン前には、「今の気持ちをマラソンで例えると、ロサ・モタが国立競技場のスタートラインで手首足首を廻しているといったところでしょうか」とコメント。
お立ち台でのヒーローインタビューでは、「そうですね、今日は下痢するまで飲みたいです」というパンチ節が炸裂しました。現役最後となった1994年の春のキャンプ中は、取材に訪れたテレビカメラの前で「今年、復活に賭ける男」と意気高らか。阪神から移籍してきた岡田彰布を「一緒にカメラの前で復活に賭けると言いましょう」と誘ったものの、「復活って言うけど、お前何もないやないか。俺と一緒にすんな」とにべもなく一蹴されたこともありました。
パンチ佐藤がデレデレの嫁は上海で出会った中国人!娘はタレント活動も
そんなパンチ佐藤の嫁は中国出身です。上海で出会って、結婚に至ったとのことですが、嫁の尻に敷かれているとか。恐妻家と伝えられながらも、いまだに嫁にデレデレのようです。また、2人の間に生まれた娘は、タレントやテレビレポーターとして活動していた時期がありました。しかし、パンチ佐藤のブログで、「2014年 新たな夢に向かってスタートをきりました」とあるので、現在は別の道に進んでいると思われます。
パンチ佐藤は、1964年12月3日生まれ、神奈川県川崎市中原区出身で、本名は佐藤和弘(さとうかずひろ)。武相高校から亜細亜大学に進学したパンチ佐藤は、東都大学リーグ通算86試合で274打数82安打、打率2割9分9厘、5本塁打、42打点の成績を残しました。
社会人野球の熊谷組にて2年連続で社会人ベストナインに輝いた活躍が評価され、1989年のドラフト会議でオリックス・ブレーブス(現オリックス・バファローズ)から1位指名を受けてプロ入りしています。ユニークすぎるキャラが大ウケし大注目されましたが、1994年に登録名を「パンチ」に変更し、レギュラーへのチャンスを狙ったものの成績下降の一途をたどり、戦力外通告の末に現役引退を発表。その後は、個性的なキャラを買われてタレントとして活躍しています。
パンチ佐藤はイチローとともに登録名を変更!成績や年俸推移は?
パンチ佐藤とともに登録名を変更したのはイチローだった!
1994年に登録名を「パンチ」に改めたパンチ佐藤ですが、同じ時期に登録名を改めた選手がもう1人いました。それは、あのイチローです。「パンチ」は「イチロー」とセットで登録名をリニューアルしたことになりますが、そこには、イチローを売り出したいという球団側の真の狙いがありました。
当時のイチローは、無名の若手選手に過ぎなかったため、すでに全国区の知名度を得ていたパンチ佐藤とセットで改名するという妙案が持ち上がったと言います。すでに「パンチ」のニックネームが定着していたパンチ佐藤は、一度は断ったそうですが、仰木彬監督の「パンチさんと一緒なら登録名変更OKだとイチローが言っている」という説得に負け、登録名変更を受け入れたとか。
こうして、改名当初は、知名度抜群なパンチ佐藤がマスコミに取り上げられますが、いざシーズン開幕するや形勢は大逆転。ヒットメーカーとして開花したイチローがヒットを量産した一方で、パンチ佐藤の成績は振るわずシーズン限りで現役引退と、くっきりと明暗が分かれました。
しかし、パンチ佐藤は、「嫉妬するにはレベルが違い過ぎていた」と振り返っています。イチローのルーキー時代を振り返り、「何を取っても高卒ルーキーの雰囲気じゃない。特にキャッチボールの球筋に圧倒されたよ」と脱帽でした。
パンチ佐藤の成績や年俸推移は?「記録より記憶に残る選手」
パンチ佐藤の現役時代は、通算で5年間プレーし、149試合に出場して、260打数71安打3本塁打26打点、通算打率2割7分4厘の成績を残しています。プロ野球ではわずか5年間しかプレーしていなかったにもかかわらず、ファンには強烈な記憶を残しているのですから、典型的な「記録より記憶に残る選手」だったと言えます。
社会人野球時代は、俊足強打の外野手として知られ、1989年の都市対抗野球大会では史上2人目のサイクル安打をマーク。そのため、オリックスからも即戦力として高く評価され、「バッティングが良くて走攻守揃った好選手」として、契約金7000万円、年俸800万円で入団しました。
プロ入り直後から、「守備と足はプロのレベルでは到底通用しない。レギュラーは厳しい」とすでに自分の能力を客観的に見ていたパンチ佐藤。とにかく1軍で生き残るにはバッティングを磨くのみと覚悟を決め、ルーキーイヤーから、42試合で打率3割3分1厘を記録しています。
その活躍と人気が評価された結果、年俸は1000万円を突破し、最高時は1200万円までいきました。しかし、バッティングの好不調の波や、守備面での送球という弱点を抱えていた彼にとって、レギュラーは果てしなく遠かったようです。とはいえ、現在のタレント活動では、花開かなかったプロ野球時代を上回る活躍を見せています。
パンチ佐藤がこよなく愛する地方での出会いと地酒!
現役引退後はタレントとして活躍しているパンチ佐藤がこよなく愛するのは、にぎやかに楽しく酒を飲むことです。自宅飲みならば、缶ビール1本にワイン1本か、麦焼酎4合はいくというパンチ佐藤。外飲みであれば、翌日のスケジュールに支障がなく、かつ気の合う人と一緒ならば底なしなので、どれだけ飲んでいるかすら把握できないと言います。
特にここ数年は、町おこしイベントや講演会、野球教室の仕事が多くなり、観光大使・親善大使といった肩書が増えてきたため、地方からお呼びがかかる機会も必然的に多くなってきました。特に、函館や青森、岩手などのイベントに招待されると、地元の郷土料理にうまい地酒で、前日から楽しいひとときを過ごすことになります。
それが地方の仕事の楽しみだと言うパンチ佐藤ですが、それにも増してこよなく愛するのが、人との出会いです。23年前のグルメ番組出演で出会った北海道の地元漁協の船長とは今でも懇意にしている仲。一期一会で気兼ねなくワイワイ楽しむほうが肌に合うというパンチ佐藤にとっては、海の幸に舌鼓を打ちながら、地酒を酌み交わす瞬間は、これ以上ないぜいたくなひとときなのでしょう。
日付が変わってもはしご酒を続け、次の日に二日酔いに見舞われることもなくスッキリ爽快!地方で地元の人と交流し、郷土料理や地酒で楽しく過ごすというパンチ流こそ、実は究極のぜいたくなのかもしれません。今後も、全国をまたにかけて、地元の人との交流の輪を広げ、楽しいレポートを届けてほしいものです。