2016年1月11日 更新
間寛平が借金地獄で心中寸前だった!保証人になった先輩芸人とは?
間寛平が借金地獄で心中寸前だった!「しくじり先生」で衝撃告白
間寛平が、借金地獄で心中寸前だった事を、「しくじり先生」3時間SPに、”すぐにハンコを押して保証人になっちゃう先生”として出演します。全ての始まりは26歳の時。吉本新喜劇の共演者だった先輩芸人から頼まれ、深く考えずに保証人になってしまったのが発端です。
その後、先輩芸人が蒸発してしまったために、多額の借金の返済を引き受けることになり、そんな間寛平を”カモ”にする怪しい知人が続出。「お金を貸そうと言ってくれている人がいる」という甘い言葉にハンコを押し、借金が雪だるま式に増えていってしまったのです。
さらに間寛平を襲ったのが、一発逆転を狙ったグッズ「アメマバッジ」販売の失敗。10万個が出来上がった頃には、すでにアメマブームは去っており、間寛平は、制作会社から費用不払いで「アメマ裁判」にかけられてしまったのです。費用を捻出せざるを得なかった間寛平は、消費者金融から6000万円を借金。借金の無限地獄を悲観して、幼い娘と心中しようとまで考えていたそうです。
間寛平が保証人になった先輩芸人は「首振り」淀川吾郎?
間寛平自身は、先輩芸人の保証人になるまで1円の借金もしたことがなかったといいます。しかし、安易に保証人になってしまったことで、「歩くハンコ屋」とあだ名されることになったには違いありません。ですが諸悪の根源は、蒸発したという先輩芸人に他なりません。その先輩芸人とは誰なのでしょうか。
1975年(昭和50年)以降、吉本新喜劇では、借金問題で座員が退団する事態が相次ぎました。野球賭博で多額の借金を抱えて自殺した中田治雄や、後に板前に転身した伴大吾らの騒動は有名です。その中でも間寛平の先輩芸人で、なおかつ借金問題で蒸発した人物として思い当たるのは、「あっちこっち丁稚」で、ニコニコ笑って首を振るだけの「首吉」という役名で出演していた淀川吾郎あたりではないでしょうか。
淀川吾郎の入団は1967年。1970年に吉本入りした間寛平より3年先輩にあたります。また、間寛平が「おい!首振り!」と呼んでいた舞台を記憶している方もいると思いますが、この2人は共演関係にもあったのです。ただしすでに淀川吾郎は亡くなっているという噂ですから、あくまで噂の話という事でとどめておきます。
間寛平の前立腺がん克服までの壮絶闘病!忌野清志郎との泣ける秘話
間寛平の前立腺がん克服までの壮絶闘病!アースマラソンの途中でがん発覚
間寛平といえば、近年の大きな話題は、4万1000㎞に及ぶアースマラソン完走と前立腺がん克服でしょう。ド天然な性格、かつ、マラソンで粛々と鍛え上げた肉体を持ちで、一見、深刻な病とは無縁そうな間寛平。
しかし、2008年12月17日からスタートした過酷なアースマラソンの途中、2010年1月4日に立ち寄ったトルコで、前立腺がんを発症していることが分かりました。トルコでのメディカルチェックで、PSA数値が異常に上昇していたことから、妻・光代が、現地まで駆けつけ、精密検査を勧めてくれたことで発見に至ったそうです。
精密検査の結果、「前立腺がん」と診断された間寛平の当時の病状は中期でしたが、幸いにも、転移は見られませんでした。この3カ月後にトルクメニスタン到達後、アースマラソンをいったん中断し、間寛平はアメリカへ引き返します。
そこで、前立腺がんの世界的名医である篠原克人医師による「HDR療法」と呼ばれる最新の放射線治療を受け、6月1日に14時間に及んだ手術も無事成功。6月18日には、トルクメニスタンに戻り、アースマラソンを再開させるという驚異の回復を見せた間寛平です。しかし、そこには、当然葛藤もありました。
間寛平の前立腺がん乗り越え、親友・忌野清志郎のロック魂へ捧げたアースマラソン完走!
間寛平の、トルコでの精密検査は1週間にも及びました。その間の間寛平の心の中は「アースマラソンを続けられるのか」「もう死ぬのかな」と不安でいっぱいだったといいます。そんな間寛平を支えたのが、ご近所関係から親友に発展した忌野清志郎の存在。ただし、間寛平のがんが発覚する頃、すでに忌野清志郎はこの世にはおりませんでした。
忌野清志郎は、2006年に発覚した咽頭がんにより、2009年5月2日に他界していました。間寛平がこの訃報を妻・光代の電話を受けたのは、アースマラソンの途中、アメリカカンザス州に入ったところでした。地球一周の挑戦を終えたら、真っ先に恩返しをしたいと考えていた親友・忌野清志郎に死に、泣き崩れた間寛平。忌野清志朗がアースマラソンを応援するために書き下ろし、生涯最後のレコーディング曲となった「RUN寛平RUN」「走れ何処までも」を聞きながら、間寛平は、完走という恩返しを誓って走り出しました。
自分も癌に倒れ、不安に苛まれてもリタイアを選択しなかったのは、歌のために「手術」を拒んで全うした親友・忌野清志郎のロック魂へのはなむけだったに違いありません。
間寛平、千原ジュニアが語る借金地獄脱出秘話!ただ直感で生きる男……
間寛平といえば「あへあへあへ~」「アメマ~」「かい~の」などのスベリギャグ。例の「アメマ裁判」でも、「アメマとは何ですか」と裁判員に問われ、「ア、アメ~マです……」と答えた間寛平に、法廷から笑いが漏れるというエピソードもありました。そんな間寛平が借金地獄で、「心中寸前」まで思い詰めていたとは、思いもよりませんでした。
間寛平の借金返済については、千原ジュニアがこんな秘話を語っています。当時、借金苦にあった他の芸人が、会社から金を借りていた事実を知った間寛平。自分もと、吉本興業に借金を申し出ました。しかし、「お前には貸されへん」と突っぱねられため、劇場公演終わりに自ら余興回りをして、借金返済を目指すしかなかったのです。
そんなある日、広島の余興先の旅館で、夜中の3時に突然飛び起き、「ジュニア、畳の目が東京に行けって言うねん。畳の目なんかめちゃくちゃあるで。それが全部俺を応援してくれんねん」と言い、翌朝には、始発で東京に行ったという間寛平。
萩本欽一の事務所に入って3年間の修行を誓ったところで、吉本興業が「今、間寛平をクビにしたら会社の恥」と、慌てて間寛平の借金を立て替え返済し、彼を東京所属に移したそうです。間寛平の発想即行動が、思わぬ幸運を引き寄せました。それ以後はテレビ出演も増え、借金完済の喜びに浸ったのもつかの間、今度は、阪神淡路大震災が襲ってきました。兵庫県宝塚市に建てたばかりの間寛平のマイホームが全壊。地震保険に未加入だったために、再び債務を背負ってしまいました。
それでも前立腺がん、アースマラソンと、何度打たれても立ち上がってきた男・間寛平。そのガッツの源泉は、「パンプキ~ン」のように、天から降って来る直感なのかもしれません。