谷田絹子は四天王寺高校時代からスゴかった!?高校生三羽烏と呼ばれた名選手
◆出身:大阪府
◆身長・体重:168cm・65kg
◆出身校:四天王寺高校
◆ポジション:アタッカー
◆所属チーム:日紡貝塚
◆東京オリンピック女子バレーボール金メダリスト
谷田絹子の卒業校・四天王寺高校はスポーツの名門校
谷田絹子(たにだきぬこ)は、1964年の東京オリンピックで金メダルを獲得した元バレーボール選手です。そんな彼女は、高校生三羽烏と称されていました。
谷田絹子が学生時代を過ごした四天王寺高校は、大阪市にある中高一貫教育の学校です。スポーツの名門校として知られ、数多くのプロ選手を輩出。卒業生の中に、オリンピックのメダリストが9人もいます。谷田絹子は同校のバレーボール部に所属し、常にレギュラーでした。
谷田絹子とともに活躍した高校生三羽烏は?
谷田絹子は、中野尚子、藤森節子と高校生三羽烏として活躍しました。中野尚子は高校卒業後、クラボウバレーボール部に入り活躍しましたが、オリンピックには届きませんでした。藤森節子は高校時代に国体に出場したようですが、高校卒業後の足取りは不明です。
谷田絹子は四天王寺高等学校から日紡貝塚に入り、1964年の東京オリンピックに出場しました。四天王寺高等学校からは、他にも松村勝美、磯辺サタ、松村好子の3人が日紡貝塚に入社。4人共オリンピックに出場し、金メダルを獲得しています。
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谷田絹子は東洋の魔女のレギュラーとして活躍!「東洋の魔女」を紹介!
谷田絹子は「東洋の魔女」
1961年の欧州遠征で22連勝した日紡貝塚女子バレーボールチームは、「東洋の魔女」と呼ばれていました。当時のソ連からの外電が彼女たちの偉業を認め、日紡貝塚のことを「東洋の台風」「東洋の魔法使い」の異名をつけ、世界的なヒロインとして大々的に伝えたことが始まりです。当時のメンバーは河西昌枝、姫田睦子、宮本恵美子、増尾光枝、中島澄子、西原篤子、谷田絹子、半田百合子、松村好子の9人でした。
「東洋の魔女」というニックネームが広く知られるようになったのは、1964年の東京オリンピックでした。女子バレーボールの決勝戦の解説をしていたアメリカのコメンテーターが、日本勢が攻撃する度に「オリエンタル・ウィッチ(東洋の魔女)」という表現を連発したことで、広く知れ渡りました。
谷田絹子はレギュラーとして活躍!
日紡貝塚女子バレーボールチームは1961年の欧州遠征の後、1962年の世界選手権と1964年の東京オリンピックに出場。谷田絹子は、そのすべての試合にレギュラーとして参加しています。
1962年の世界選手権では、最終戦となったソ連との全勝同士の対決で、セットカウント3-1で勝利し、優勝を飾っています。日本の団体球技が世界大会で優勝するのはこれが初めてのことで、日本では社会的なニュースとなりました。
谷田絹子のバレーボールの経歴や現在の活動を紹介!
谷田絹子は1939年9月19日生まれ、大阪府の出身です。四天王寺高等学校卒業後、1958年に日紡貝塚に入社。1961年の欧州遠征では22連勝を挙げ、1962年の世界選手権では日本の団体球技初の快挙である優勝を飾っています。
1964年の東京オリンピックでは、エースアタッカーとして金メダル獲得に貢献しました。そして翌1965年、第20回国民体育大会バレーボール競技出場のためのチーム・富士クラブのオーナーに就任した淡島千景の事務所の職員となり、東京都内で同居するようになります。
しかし1969年、30歳の時に母親が亡くなったため地元の大阪府池田市に戻り、家庭を持って子宝にも恵まれます。現在では池田市でママさんバレーの指導に取り組んでいる谷田絹子。ママさんバレーについて、「自分のためにやっている」と語っています。
これは大松博文監督に教えられた「国のためではなく、お前たちのためにやれ!だから一生懸命頑張らないといかんのだ」からきているのだとか。2020年9月の誕生日で81歳を迎えた谷田絹子ですが、いつまでも健康で東洋の魔女の伝説を後輩たちに語ってほしいものです。
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