美空ひばりの死因の真相!息子・加藤和也の現在は?
美空ひばりは、昭和という時代とともに52歳の若さで亡くなった
美空ひばりが亡くなって、もう四半世紀が経ちました。しかし今でも、赤い不死鳥をあしらった衣裳をまとって歌う美空ひばりを、知らない人はいないでしょう。美空ひばりは、映画俳優の石原裕次郎とともに、昭和のスーパースターでした。美空ひばりは、1937年生まれで、1989年に昭和が終わりを遂げた年とともに、52歳の若さでなくなっています。
1987年、長年の心労や肉体的無理が祟り、慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症で緊急入院した美空ひばり。なんとか一命を取りとめた美空ひばりは、1988年、東京ドームのこけら落しとなる「不死鳥コンサート」を実施。全39曲を歌い切ったその鬼気迫る姿は、まさに不死鳥のようで、伝説のコンサートとして、今もその姿をライブ映像で見ることができます。しかし、美空ひばりの病魔は決して去ってはおらず、1989年3月23日、ついに、特発性間質性肺炎で逝去。この病名はあくまで結果であり、美空ひばりは、不死鳥のように、自らの体を燃え尽くしたといえましょう。
没後、美空ひばりに女性歌手としては初めて、国民栄誉賞が贈られました。ちなみに、美空ひばりが亡くなった52歳と今同じ年齢の芸能人といえば、今井美樹や松本仁志などです。美空ひばりが、いかに若くして亡くなったか、また偉大な存在であったかが分かります。
美空ひばりの孤独な晩年を支えた、養子加藤和也の数奇な運命
美空ひばりが活躍していた1950年代や60年代は、混沌とした時代でした。テレビの登場で、メディアの世界が革新的な進歩を遂げた反面、芸能界はいまだ興業の世界・いわゆる反社会集団に牛耳られ、トップスターであった美空ひばりも、山口組三代目田岡一雄の庇護の元、芸能活動をしていたのです。美空ひばりには、加藤哲也と香山武彦という弟が2人いました。
ともに芸能界に入りますが、所詮は美空ひばりの七光り。幾度も不祥事を起こして芸能界を離れ、兄の加藤哲也は、山口組傘下の暴力団員となり、弟の香山武彦は飲食店を経営していましたが、今でいうフロントまがいの暮らしでした。1970年代に入ると、美空ひばりの人気に陰りが出てきただけでなく、一卵性親子といわれた母の喜美子が亡くなり、さんざん面倒をかけられた弟たちも、相次いで亡くなってしまいます。
独り取り残された美空ひばりは、弟・加藤哲也の一人息子の加藤和也を養子とし、実の母以上に溺愛しました。その後、闘病も虚しく、美空ひばりがこの世を去ったとき、加藤和也はまだ18歳。美空ひばりというあまりに大きな存在の前に、その死の直前まで、素行も芳しくありませんでした。
しかし、美空ひばりの死後から現在に至るまで、加藤和也は株式会社ひばりプロダクション・藤和エンタープライズ代表取締役社長として、母である美空ひばりという偉大な昭和の遺産を守り続けています。
美空ひばりと水前寺清子の確執の原因は?ジャズの歌唱力も凄かった!
美空ひばりに反旗を翻し、人気演歌歌手がめざした「歌謡界の女王」の地位
美空ひばりが活躍していた昭和の時代、今では想像もつきませんが、歌手の世界も年功序列が厳しく、楽屋などでは陰湿ないじめが本当にあったようです。当時の歌手にとって、紅白に出場や、そのトリを務めるということは、歌手としての最高のステータスであり、翌年からの興業ギャラが跳ね上がるという一大事。
1971年の紅白歌合戦では、昭和の大歌手で、タレントとしても人気絶頂だった水前寺清子が司会をしていましたが、大トリである美空ひばりの曲紹介をなぜか拒否。後の謝罪会見では、「私も歌謡界の女王と呼ばれたいものですね」と、芸能界での、むやみな美空ひばり礼賛を暗に批判したそうです。今となっては、美空ひばりと水前寺清子との間に何があったか知る由もありませんが、当時の歌謡界の熾烈なトップ争いが垣間見られるエピソードです。
美空ひばりの、ネイティブも驚く珠玉のジャズスタンダード
美空ひばりが、歌手として「天才」であったことはまちがいありません。美空ひばりは、譜面を読むことができませんでしたが、メロディを一度聞いただけでその通りに歌うことができたそうです。美空ひばりは、ジャズのスタンダードも完璧に歌いこなしました。美空ひばりが歌うジャズの歌声を聞いた外人のプロモーターは、「この歌手は、やや黒人のなまりはあるが、英語の発音は正確だし、ジャズの心を充分表現している。この歌手を手配してくれないか」と言ったそうです。美空ひばりは、オリジナルの歌を聞いて覚えたことで、英語のなまりまで完全にコピーできていたという証しでしょう。
美空ひばりが、伝説の歌姫となることができた理由
美空ひばりが、伝説の歌姫と言われるようになった理由はいくつもあるでしょうが、その1つには、彼女が出した膨大なレコードやCD、音源の存在だけでなく、映画やテレビ、コンサートの動画が数多く残されていることも大きな要因といえます。今年の7月初め、東京・中野サンプラザで開催される「コロムビアうたまつり2016」では、所属歌手だった美空ひばりと島倉千恵子を偲んで、それぞれが生前、中野サンプラザで歌った映像を再構成し、夢の競演が企画されています。
今や映像合成技術の発達は、その歌手が、まるでそこで歌っているかのような映像を作り出すことが可能になりました。これによって、その伝説はいつまでも人々の記憶に、よりしっかりと刻みこまれます。そしてもう1つ、美空ひばりが、伝説の歌姫と呼ばれるようになった理由は、長い低迷期を経て、1989年に最後に出されたシングル曲「川の流れのように」が、150万枚のミリオンヒットを記録したことにあるでしょう。
この曲は、あのAKBを世に出した秋元康の企画による、「不死鳥パートII」というアルバムの中から、美空ひばり本人がシングルカットを強く望んだ曲です。美空ひばりは、このアルバムに関するインタビューで、「もう『川の流れのように』の曲を1曲聴いていただくと、10曲全てが分かるんじゃないでしょうか」と、えん然と答えたそうです。美空ひばりは、死期を前にして、この1曲に、これまでの自分の歌手人生全てが表されていることを感じ取っていたに違いありません。