アントニオ猪木の名言がストレートでイイ!「道」はオリジナルではなかった?

アントニオ猪木の名言がストレートでイイ!「道」はオリジナルではなかった?

アントニオ猪木の名言にはシンプルだが力がある!馬鹿になれば人生は成功する!?

アントニオ猪木といえば、「元気ですか~!」の名言でお馴染みの元プロレスラーで、現在は、自ら代表を務める”日本を元気にする会”所属の参議院議員です。「元気が一番、元気があれば何でもできる」などは誰にでも言えそうなセリフですが、波乱万丈な人生をかい潜って来たアントニオ猪木だからこそ、言葉の重みが違います。

アントニオ猪木は、神奈川県横浜市生まれですが、13歳の時に祖父と母に連れられてブラジルに渡り、苛酷なコーヒー農園労働を経験しています。1960年、17歳の時、興行でブラジルを訪れていた力道山にスカウトされ、日本プロレスに入団。ジャイアント馬場に対戦を断られた時には、「僕は今夜、馬場のことを殺してしまうかもしれないよ」と言っていますが、これも、熱烈な想いをストレートに表現した名言中の名言です。

その後、アントニオ猪木は、紆余曲折あって日本プロレスを追放され、新日本プロレスを旗揚げ。さまざまな無謀かつ斬新な挑戦を続け、プロレス黄金時代を築きました。「馬鹿になれ、恥をかけ、裸になったら本当の自分が見えてくる。本当の自分も笑ってた。それくらい馬鹿になれ」とは実にシンプルですが、究極の人生成功術といえそうです。

アントニオ猪木引退試合の名言「道」は一休さんの詩!?

アントニオ猪木は、1998年4月4日の東京ドームで行われた引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で、ドン・フライとの対戦に勝利し、引退しています。その際のスピーチで、アントニオ猪木は、「道」というタイトルの詩を披露し、大きな感動を呼びました。「この道を行けばどうなるものか」から始まり、「踏み出したところが道となるから、迷わず恐れず行け」と続く「道」は、アントニオ猪木の信条が練り込まれたような詩です。

しかし、この「道」は、アントニオ猪木のオリジナル作品ではなく、2000年に他界した哲学者の清沢哲夫の著書「無常断章」に収められていたものなのだそうです。アントニオ猪木には他人の詩という自覚はあったため、自著「猪木寛至自伝」でも、そのように「道」を紹介していますが、作者は”一休さん”のモデルとなった、”一休宗純”だと勘違いしていた様子。しかし、自分の道を行くアントニオ猪木が語るだけで、元気を貰えることには違いありません。

アントニオ猪木VSモハメド・アリ!伝説の対戦は茶番だったのか?

アントニオ猪木VSモハメド・アリ!プロレス技を封印した世紀の大一番は世界中で話題に!

アントニオ猪木は現役時代、プロレスに止まらず、異種格闘技との対戦においても大活躍しています。「燃える闘魂」との異名を持つアントニオ猪木は、自らこそが最強であることを示すために、「熊殺し」と呼ばれるアメリカ人空手家、ウィリー・ウィリアムスらとの戦いを繰り広げ、後の総合格闘技の基盤を築きました。

中でも、世界各国で中継されて話題を呼んだのは、プロボクシング統一世界ヘビー級王者であるモハメド・アリとの対戦です。1976年6月26日、日本武道館で”格闘技世界一決定戦”と銘打たれてマッチメイクされた世紀の大一番は、誰もが、世界最強のパンチとスピードを持つモハメド・アリの圧勝を予想したはずです。アントニオ猪木は、タックル、チョップ、投げ技、関節技を禁止されていましたから、ますます勝ち目はありません。

そんな圧倒的劣勢の中で、アントニオ猪木は、最終15Rまで、ほぼリングに寝そべっての蹴り攻撃で、モハメド・アリのパンチを回避しました。足を集中的に蹴り続けられたモハメド・アリは、何度か立つようにと挑発しましたが、お互いに決定打なく、判定の末に引き分け。もちろん観客席は大ブーイングの嵐でした。

アントニオ猪木VSモハメド・アリは茶番だったのか!?命懸けの死闘を証明する舞台裏

アントニオ猪木VSモハメド・アリと聞いただけでも茶番臭い気がするものですが、試合を観戦した人々の中では、さらにその思いが膨らんでいったようです。プロレスをパフォーマンスとしか考えていなかったモハメド・アリに、プロレス技を封印してのドロー試合は、”プロレスこそ全ての格闘技の頂点”という、当時の新日本プロレスの標榜を裏切らない結果に終わりました。

しかし、モハメド・アリのほうも、得意のジャブを封印された上で行われた試合だたったため、最後まで見せ場がないままだったことに、妙な手心を感じた人々は多かったのではないでしょうか。睨み合いに終始した余興試合ともいいたいところですが、「茶番なら、もっと派手に面白くする」と語ったのは、アントニオ猪木のセコンドを務めたプロレスラーの藤原喜明。彼は、命懸けの試合のピリピリムードを目の当たりにしており、「真剣勝負だからこそ、ああいう展開になった」と証言しています。

モハメド・アリのほうも、この時に足に受けたダメージが原因で、5年後に現役引退を余儀なくされたとまで伝えられています。後付けのエピソードでなければ、茶番説は完全に撤回されてもいい内容です。

アントニオ猪木が北朝鮮の核実験を弁明!太いパイプを持つ理由とは?

アントニオ猪木は、1989年、スポーツ平和党を結成し、参議院議員選挙に初当選して、史上初のレスラー国会議員となっています。「国会に卍固め!」をキャッチコピーに、現役を続けながらの国政進出は、必ずしも称賛の声ばかりではなく、講演中に刃物で襲われたこともありました。

頚部から流れる血をタオルで押さえながら講演を続行したアントニオ猪木。「元気ですか!」「馬鹿になれ!」と血気盛んな名言には、全くハッタリを感じさせない”道”を感じさせられたものです。しかし、アントニオ猪木については、北朝鮮との謎のパイプを見過ごすわけにいかないのが現状です。

2016年9月には、核実験を加速させつつある北朝鮮の建国記念日に合わせて出向き、金正恩党委員長の側近と会談したといいます。帰国後の会見で、「核実験は日本にではなく、アメリカに向けたもの」との北朝鮮側の主張を発信したことも、「アントニオ猪木は、北朝鮮の回し者?」と、物議を醸しました。

アントニオ猪木は、北朝鮮から国賓級の扱いを受けるまでのパイプを持っており、これまでに幾度となく訪朝しては、北朝鮮を宣伝する発言を繰り返しています。北朝鮮は、恩師・力道山の故郷。アントニオ猪木は、この事実を知らずにいましたが、スポーツ紙の報道で、力道山の娘が北朝鮮にいることを知り初訪朝。その夫が北朝鮮国家体育委員長を務めていたため、多くの政府要人との交流を持つようになったそうです。

「利用できるものは全て使って目的を達成する」というアントニオ猪木には、自ら作った人脈を、朝鮮半島の平和だけでなく、日本の拉致問題解決の糸口として、「俺を利用してくれ」という想いがあるようです。これも彼の言う「道」であり、「常識から踏み出せ!」という強い意志の表れなのでしょう。

日本を標的にするものではないにせよ、北朝鮮の核実験は、世界平和を揺るがす大問題ですから、アントニオ猪木の言動は全うと言えるものではありません。しかし、寸分もブレない命懸けのスタイルは、「燃える闘魂」たる男にしかできない生き方であることもまた事実です。

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