張本勲の左打者転向は右手の負傷から!伝説の大打者その成績や年俸推移は?

張本勲の左打者転向は右手の負傷から!伝説の大打者その成績や年俸推移は?

張本勲 右手に後遺症も屈せず左打者転向 ジャイアンツ選手の食事風景に衝撃

日本プロ野球史上唯一の3085安打を達成した伝説の大打者・張本勲。年間200本の安打を15年連続で積み重ねても、まだ85本不足するくらいですから、いかに3085本の通算安打が途方もないものかを思い知らされます。そんな不滅の記録を残した張本勲ですが、実は右投げ左打ちでした。

張本勲は、小学5年のときに、町内の社会人野球チームに誘われたことから、野球の道に進みます。しかし、右手の負傷の後遺症で、右手がボールを満足に握れず、サウスポーに転向、このとき左利きに矯正します。右手の負傷は、4歳のころに負った大やけど。右手の親指、ひとさし指、中指以外の自由を失うほどの重傷でした。

そのため、後遺症の残る右手はほとんど使えず、後の野球人生も含め、張本勲の苦労は絶えませんでしたが、屈することはありませんでした。張本勲の人生を決定づけたのは、試合見物でたまたまのぞき見た読売ジャイアンツの選手の宿舎での食事風景。

選手たちが分厚い肉をほおばり、当時は貴重だった生卵を次々と茶碗に放り込む光景に、貧しかった張本勲少年は大きな衝撃を受けたのです。その日から、プロ野球でプレーするという目標を掲げた張本勲は苦難と紆余曲折のすえに目標を達成し、大打者への一歩を踏み出します。

張本勲 伝説の大打者! 「安打製造機」として打率3割16回 最高年俸は推定4000万円

張本勲は、東映フライヤーズ(現北海道日本ハム)に入団し、読売ジャイアンツ、ロッテオリオンズで通算23年間プレー。2752試合に出場し、9666打数3085安打で終身打率は3割1分9厘。504本塁打1676打点を記録しています。やはり特筆すべきは安打の量産ぶり。

プロ入り1年目から20年連続100安打以上を記録、うち打率3割以上は16回マークし、首位打者のタイトルを7回獲得。シーズン最高打率は1970年に残した3割8分9厘で、読売ジャイアンツ移籍1年目の1976年には自己最多の182本を放つなど充実した内容でした。

張本勲は「安打製造機」の異名が有名ですが、左右自在にボールを打ち分ける特徴から「広角打法」、「スプレー打法」ともいわれました。その自在ぶりは、野村克也に「張本は2ストライクまで追い込んだら、バットではなくテニスのラケットを持っている」と言われたほど。

張本勲の広角に打ち分けるバッティングこそが、3085安打達成の大きな要因でしょう。張本勲は実は駿足でもあり、1963年にはリーグ2位の41盗塁するなどして通算319盗塁。その駿足を利して、セーフティバントも得意としています。通算400本塁打以上で通算300盗塁以上の記録は、張本勲のほかに秋山幸二しかいません。

伝説の大打者・張本勲の年俸は、プロ入り時は推定60万円でスタートし、全盛時は4000万円を最高に3000万円後半で推移しています。年俸1億円も珍しくない今と比べると少ないように感じられますが、年俸トップの王貞治ですら推定8000万円台の時代ですから仕方ないことかもしれません。

右手がほとんど機能しないというハンディを克服して、張本勲がこれだけの大記録を残したのは称賛に値します。身体能力と図抜けた技術に恵まれたこともさることながら、過酷な練習と強靭な精神力に支えられたことも大きかったのではないでしょうか。

張本勲の広島原爆遭遇体験とは?家族、母、姉の感動秘話!

張本勲 広島での原爆遭遇体験封印も 「まだ戦争は終わっていない」と熱く語る

張本勲は、1940年在日韓国二世として広島で誕生。1945年、5歳の張本勲は、広島で原爆投下に遭遇という壮絶な体験をしています。爆心地から約2キロの距離にあった広島市段原新町の自宅は、海抜約70メートルの比治山により熱線直射は免れましたが、爆風で家屋は全壊。一帯を見回せば地獄絵としかいいようのない凄惨な光景でした。やけどに苦しみ、夜どおしでもだえる人々のうめき声。近くの川には、息絶えた人々の亡きがらがあふれました。幼少の張本勲の心の中には、忘れることができないトラウマとして、当時の記憶が深く刻まれました。野球に没頭することで、被爆経験を封印してきた張本勲。あるインタビューでは「8月6日は思い出したくない」とすら語っています。しかし、ある出来事から、張本勲の意識に変化が生まれました。あるとき、若い世代の「原爆の落ちた場所を知らない」との発言に憤った張本勲は、メディアを通じて被爆体験を語り始めます。「皆さん70年と言うけれど、我々にはまだ、戦争は終わっていない」と語る張本勲の口調には、戦争への怒りがみなぎります。さらに「広島や長崎の資料館で、愛する娘や息子が、尊敬する父母が、こうなったらどう感じるかと、自分に置き換えて考えてくれれば、戦争はなくなると思う」と、張本勲は熱く語ります。

張本勲 不眠不休で働く母と兄 姉の死 「絶対恩返しする」と契約金で家を購入

張本勲の父親は、朝鮮帰国後に急死。そして、張本勲の姉は、広島で勤労奉仕作業に従事していた際、原爆投下による大やけどを負い、家族の懸命な看病もむなしく数日後に息を引き取ります。張本勲にとって「優しくて、美人で、慕っていた姉」。その姉が無残な姿に変わり果て、「痛い、熱い」と苦しむ姿に張本勲は衝撃を隠せませんでした。

差し出すブドウを口にした姉の「ありがとう」という言葉が、今でも張本勲の心に残っているのだそうです。娘の死を悲しむ暇もなく、残された張本勲の母親の肩には家計が重くのしかかります。しかも、日本に渡ってきて、日本語もほとんど話せないというハンディをかかえ、6畳トタン屋根の小屋で、工員らを相手にホルモン焼き屋を開業。駅近くの闇市まで、電車代節約のため、徒歩で仕入れに行く日々が続きます。張本勲の兄も流しのタクシー運転手としてひたすら働き、乏しい収入を割いて仕送りする毎日。

朝から晩まで不眠不休で働く母と兄の姿を目の当たりにし、「絶対にプロ野球に入って、お金稼いで恩返しをする」と張本勲少年が心に固く誓ったことはいうまでもありません。やっとプロ野球入りがかなった際には、契約金200万円を兄に預けて、広島市内に土地を購入し、母親のために念願の家を建てることができました。それまで暮らしたトタン屋根の家に比べれば、御殿のようにまばゆく見えたと張本勲は回想しています。

張本勲 野村克也との舌戦 悲願は「アジア代表チームの結成」

歯に衣着せぬ「喝!」が物議をかもす張本勲ですが、その「唯我独尊」ぶりに釘をさす存在が見当たらない中、「ノムさん」こと野村克也が敢然と(?)お得意の舌戦を仕掛けました。7月13日の横浜DeNA対巨人戦、副音声でゲスト出演した野村克也は、「張本は全然大したことないよ。

バッティングしか興味がない。守備なんていないと同然」と張本批判を開始。「張本さんは足は速かった?」という質問には「速いよ!内野安打の時のあのスピードは」と続け、ピッチャーゴロには「走らないよ。バッターボックスからそのままUターンしてベンチ帰ってくる」と張本勲の現役時代を暴露。さらには「朝のテレビで色々選手批判をしてるけど、彼は選手批判をする資格ないですよ」、「彼の談話を聞いてると、お前人の事を言えるのか?とテレビに向かって文句言ってる」と、「喝!」を下す張本勲の「ご意見番」ぶりを一刀両断しました。

これには張本勲も負けてはおらず、野村克也十八番のささやきにキレて、空振りのふりしてバットでたたいたと明かしています。張本、野村双方ともキャラは異なるものの、口に火がついたらコントロールが利かない一徹ぶりですから、ゲストに呼ぶ側もかなり気苦労が絶えないと想像できます。

それはさておき、張本勲は「ご意見番」での過激な論調が有名ですが、幼少時代の右手の大やけどのハンディを、左利きに矯正することで克服した「努力の人」でもあります。そして、在日韓国人二世としての苦難や、広島での被爆体験などの過酷な体験を経て、大打者として不動の名声を得ました。

そんな張本勲の「おふくろの味」は、白菜だけのキムチに、ネギ、豆腐と屑肉入りの味噌汁。特に味噌汁は、腹ペコの張本勲少年にとっては何よりのごちそうだったそうです。張本勲は、契約金で建てた家に、親友の王貞治を招待したときにも、この味噌汁をふるまったとのこと。

それは苦労を重ねた母親の思い出の味とあって、張本勲にとっては格別の料理。さて、張本勲には「野球のアジアリーグで、民族を超えたアジア代表チームを結成し、米国代表と試合をする」という悲願があります。その源にあるのは、忌まわしい戦争の経験を後世に語り継ぎ、国どうしが仲良く平和に暮らしていけるよう働きかける責任があるという張本勲の思い。そのための方法として、野球を通じて交流を図ろうではないかと提案なのです。その志を、我々も受け継いでいかなければなりませんね。

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