北野武、金と時代を語る!映画とお笑いの両立にこだわる理由

北野武、金と時代を語る!映画とお笑いの両立にこだわる理由

2023年1月30日 更新

北野武とビートたけし。2人のたけし物語

北野武、レジェンドはもう68歳

北野武、1947年生まれ68歳。日本を代表するコメディアンであり映画監督。最近ではビートたけしという芸名より、文化人として北野武という本名の方が一般的かもしれません。いわゆる団塊世代、昭和の人であり、実際彼はもう68歳になります。

彼が妙な扮装をしてあまり面白くないギャグをしても、まわりのタレントやスタッフが大げさにウケるので、若い人たちにとっては、彼は偉い人かもしれないけど実際のところはよくわからない、というのが正直な感想ではないでしょうか。もはやレジェントとなってしまった北野武とは、いったいどんな人物なのでしょう。

ビートたけしは、浅草の異端児

北野武を知るには、彼をいくつかの時代に分けて語るのが、わかりやすいかもしれません。1965年、今からもう50年も前、彼は東京オリンピックの翌年に現役で明治大学に入学します。しかし長年スパルタ教育の母親の元で勉強させられていた彼は、当時の若者同様、大人たちへの反発からか、大学へ行く意欲を失ってしまい、新宿や浅草の裏町をぶらつき、バイトで食いつなぐ生活をします。そしてたどり着いたのが浅草演芸場です。世の中の、学生運動などとは全く真逆で、因習や理不尽が蔓延る古い芸能の世界で、北野武は、両極端の感情、押さえきれない怒りと恐ろしいほどの諦観を、心の中にため込んでいきます。彼はやがて、ビートきよしと漫才コンビツービートを結成し、ビートたけしとなります。「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」「寝る前にきちんと絞めよう親の首」「赤信号みんなで渡れば恐くない」など、その辛辣で破れかぶれとも言うべき毒舌は、寄席でも大きな注目を浴びますが、同時に古い芸人たちからは批判の的となります。そんなドン底の暮らしの中で、漫才師であった現夫人のミキさんと結婚をしています。
北野武、北野ブルーに彩られた、突発する暴力と恐ろしい諦観

ビートたけしが時代のカリスマになったとき

彼が一気にブレイクするのは、1980年の漫才ブームです。彼はすでに30歳を越えていました。70年代が政治や学園紛争の時代なら、80年代は大衆文化の時代と言えます。それまでの芸能界やテレビに飽き足らない若い世代が、新しい笑いやエンターテイメントを渇望していたのです。ビートたけしは、その最前線で戦い、萩本欽一やドリフターズなどの、一家団欒、子どもたちを相手にした笑いを一掃します。「俺たちひょうきん族」、「天才たけしの元気が出るテレビ」など、バラエティ番組の雛型というべき伝説のテレビ番組全てに、ビートたけしが関わっていたと言っても過言ではありません。同時に、彼は時代のカリスマとしてとり挙げられ、プライベートの全くない生活が、彼を蝕んでいきます。

そして1986年12月9日、愛人関係にあった女子大生への強引な取材に端を発した、たけし本人とたけし軍団メンバーによる「フライデー」(講談社)編集部襲撃事件が起こります。当代一の売れっ子タレントが、マスコミである出版社の編集部を襲うのですから、世の中は大騒ぎとなりました。実際は、大きな怪我人が出たわけでもなく、ビートたけしは執行猶予となり、その後8か月の謹慎生活を余儀なくされます。そして、その多くの時間を石垣島で過ごすことが、その後の映画制作へとつながっていきます。

ビートたけしから北野武へ。世界の北野レジェンド伝説

監督第一作の「その男、凶暴につき」、第4作の「ソナチネ」などは、彼の心の奥底に秘めた突発する凶暴性や恐ろしいほどの諦観が見受けられます。そして北野ブルーと呼ばれる独特の映像美と死・タナトスへの傾倒は、日本よりも海外で高い評価を得ます。北野武自身も、国内では評価の別れる「ソナチネ」に大きな思い入れがあったようです。1994年に起こした瀕死のオートバイ事故は、彼の無意識での自殺行為ではないかとも取り沙汰されました。そんな彼も、最近では「アウトレイジ」や最新作の「龍三と七人の子分たち」のように、純然たるエンターテインメントを楽しんで作っているように思われます。

ビートたけしから世界に名だたる北野へ。相変わらず、彼を冠したテレビ番組は減ることもなく、映画もコンスタントに制作し続けています。文化人としての一言一言も、ますます重みをもって受け止められていくことでしょう。しかし本人自身は、「たがが芸人のいうことにオタオタしやがって」という世の中を斜に構えたスタンスを変えることはありません。彼はまさに、昭和団塊世代の申し子と言えるでしょう。

北野武が、修行時代の台東区浅草って、どんなとこ

北野武が修行時代を過ごした、台東区浅草は、昭和レトロの町

浅草というと、浅草寺と仲見世通りばかりが有名ですが、浅草は、江戸時代から栄えた一大繁華街で、かつては映画館やレビュー、寄席小屋がいくつもたち並ぶ最先端の文化都市でした。しかし1970年代にもなると、町の人気は新宿や渋谷に移り、高倉健の「唐獅子牡丹」に歌われた賑やかな六区の通りも、すっかりさびれてしまいました。しかし最近の外人観光客増加に伴い、近代都市東京の中で、昭和レトロな浅草に人気が集まるとともに、地方からの観光客も増え、新たな脚光を浴びています。

北野武が修業時代を過ごした台東区浅草は、今も芸人とのんべえたちの町

今、六区通りには、浅草ゆかりの芸人たちの看板がにぎやかに並び、観光客を迎えてくれます。その中に1枚だけ、予約済と書かれた写真と名前がない看板があります。実はこれ、北野武用の看板です。かつては浅草の売れない芸人で、今は「捕鯨船」という飲み屋を経営する大将が、浅草を少しでも活性化するために作った芸人看板は、例え浅草ゆかりの芸人たちであっても、それぞれ許可を取るのがたいへんだったとか。大将の申し出に、北野武は死んでから飾ってくれと伝えたそうですが、そこは元芸人、兄弟子の申し出として、かってに予約済にしてしまったそうです。さすがの彼もこれには参って、看板にOKを出したそうですが、大将が、この方がしゃれが利いていると、今もこのままにしているそうです。

北野武の名曲「浅草キッド」で、「お前と会った仲見世の、煮込みしかないくじら屋で」と歌われたのは、まさにこの大将の店です。北野武は今もときおり店を訪れて、何も言わず大金を大将に預けていき、その時店にいたお客さんの分も全部払っていくそうです。大将は、彼が渡した大金の封筒に「たけし預かり金」と書いて、金のない若手芸人たちの飲み代をそこから出して、彼らの名前を封筒に書き連ねているそうです。昭和芸人の情けと粋が今なお色濃く残る浅草は、人の心を癒やす町です。

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