中村紘子が夫と大腸がん治療専念へ!今後のコンサート、ステージ復帰は?

2015年11月11日 更新

中村紘子が夫と大腸がん治療専念へ!今後のコンサート、ステージ復帰は?

中村紘子 大腸がんの病状は?3月に復帰するも再び……

日本を代表するピアニスト・中村紘子。今、大腸がんの病状が心配されています。所属事務所の発表は「治療方針に関し綿密に協議した結果、当面の集中的な療養が必要と判断されました」というもので、詳しい病状は明らかにされていません。

中村紘子は、2014年に腸閉塞の手術を受けました。その時の内視鏡検査で大腸がんが見つかったのですが、この時点の進行度合いはステージ2だったようです。以後、中村紘子は演奏活動を続けながら、抗がん剤治療を受けていました。

しかし、体に力が入らない、暗譜が飛ぶ、楽譜通りに鍵盤を追えないという副作用に苦しめられ、とてもピアノを弾ける状態ではなくなり、今年の2月から演奏活動を休止していました。大腸がんの宣告をうけた中村紘子は「そんなの全然平気」とどこか他人事のような大きな気持ちでいたといいますが、たったひとつ「ピアノを弾きたい」という思いだけが頭にあったといいます。

一時は抗がん剤の副作用によってできた血栓のせいで血流が妨げられ、腕が飛行船のように腫れ上がったそうですが、それをも乗り越えた中村紘子は、一度は3月6日にステージに戻ってきていました。

中村紘子 コンサート、ステージ復帰は?2016年3月まで活動休止

大腸がんの治療中である中村紘子は、「ピアノが弾けなければ意味がない」というかたい意思によって、今回の療養を決定したようです。これにあたって、事務所側は当初「8月29日から11月末まで予定されていた演奏活動を休止する」としていましたが、その後2016年3月末まで休止期間を延長すると発表しました。

10月2日の講演は、代役をたてて開演されるようですが、中村紘子の演奏が聴きたかったという人々にとってはショックは大きいはずです。「中村紘子の体調の経過をみながら活動の再開を検討する」ということらしく、実質的には、復帰の時期については今のところ未定。

中村紘子のコンサートには、ただピアノの演奏を聞きに来るだけではなく、軽妙なトークなどを楽しみに来るファンも多いといいます。7月にはスタミナを要するベートーベンのピアノ協奏曲「皇帝」の熱演、ファンとの交流も精力的におこなっていた中村紘子。再びステージに戻ってくる日が待たれます。

中村紘子 夫・庄司薫(芥川賞作家)、子供、父親の現在は?

中村紘子 夫・庄司薫(芥川賞作家)はヒモ男ではない 2人の間に子供はいる?

中村紘子の夫・庄司薫は、現在78歳の芥川賞作家。1969年に「赤頭巾ちゃんに気をつけて」で芥川賞受賞作家となりました。2人の結婚は1974年、演奏ツアーで不在になることが多かった中村紘子の愛猫をたびたび世話していたことから仲が深まったためといいます。

結婚後の1977年には断筆し、すっかり中村紘子の「夫・庄司薫はヒモ男」のイメージが世間には定着していたようですが、実は投資のテクニックがプロ並みだったらしいのです。中村紘子の夫・庄司薫は、バブル期には13億以上の借金をして、不動産や株への投機を始めました。常識的には破産してもおかしくない状況だったはずなのに、バブル崩壊後もなぜかうまく売り抜け、2006年以降に借金を完済しているそうです。

ぶらぶらしているという噂がありましたが、財界人との付き合いもあるようですし、中村紘子のコンサート後のパーティに顔を出したりもしていたという話もあります。2人の間に子供はいませんが、夫婦の仲は今もなお良好なようです。

中村紘子 父親の現在は?戸籍が「母の妹」の怪と、ピアノを与えてくれた母親

中村紘子の父親は、陸軍少佐・野村典夫です。もしご存命なら100歳になると思われます。というのも、中村紘子は両親の離婚によって、父とは生き別れになっているためです。間違いなく中村紘子はその父親と母親の子供なのですが、離婚の原因は、中村紘子の戸籍が「母親の妹」になっていたこと。

誰が何の目的でそうしてしまったのかは不明であり、そのことを当然父親は知らされていませんでした。しばらく父親、母親、妹と中村紘子の家族4人で暮らしますが、戸籍の怪によって不信感を抱いた父親は離婚を迫るようになったそうです。それがいつ頃のことか、中村紘子自身の記憶にははっきり残っていないのですが、1947年にピアノを習い始めた3歳の頃の中村紘子の記憶に、すでに父親の存在はなかったといいます。

現在の気高い中村紘子からは信じられないような生い立ちですが、彼女にピアノを与えてくれたのは母親でした。たった一人で印刷会社を興した母親は、中村紘子を慶應義塾幼稚舎に通わせることで人脈を作り、援助を受けながら、中村紘子を一流のピアニストに育て上げたのです。

中村紘子 ショパンコンクールの不本意と日本人ピアニストの悩み

中村紘子といえば1965年の第7回ショパン国際ピアノコンクールで日本人として2人目、4位入賞を果たしたことで有名なピアニストです。しかし、これは本人にとっては非常に不本意な結果だったそうです。18歳の時にニューヨークのジュリアード音楽院へ留学した中村紘子は、それまでの自分の奏法、それどころかすべてを捨てるに等しいという状況に虚脱状態になりました。

ピアノにも触れることができないという精神状態が半年も続いたといいます。著書「ピアニストという蛮族がいる」で語っているのですが、中村紘子はいつも、日本人が西洋クラッシック音楽に献身する時の姿勢について考えていました。身も心も日本人の「中村紘子」が弾くのか、それとも思想ごと本場人になり切った「ヒロコ・ナカムラ」が弾くのか、そんな思いを抱えて迎えたショパンコンクール。

38度の高熱と下痢という体調不良のため、納得のいく演奏ができなかった後悔とはうらはらに、「日本人初の入賞者!」ともてはやされたことに、ますます日本人ピアニストの位置づけへ疑問を抱いてしまうのです。しかし夫・庄司薫と出会い、日本人の本質を守りながら、西洋クラッシックに非常に詳しい彼の作品の登場人物たちが中村紘子を変えました。

以来、演奏活動もさることながら、指導者として若手にその情熱を注いできたのです。そんな中村紘子ですから、今回の活動休止は苦渋の決断でした。しかし、演奏者の中で最も高い精神性を求められるピアニストである中村紘子のことですから、きっとステージに帰ってきてくれるはず。その日を信じて待ちましょう。

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