中曽根康弘元首相が日航機墜落事故の真相を握ると言われた事情!息子や孫が語った晩年

中曽根康弘元首相が日航機墜落事故の真相を握っていると言われた事情は?


中曽根康弘のプロフィール
◆生年月日:1918年5月27日
◆死没:2019年11月29日
◆出身:群馬県
◆身長:178cm
◆血液型:O型
◆出身大学:東京帝国大学法学部政治学科

中曽根康弘は戦前・戦後を知る政治家だった

第71代から73代の内閣総理大臣であった中曽根康弘(なかそねやすひろ)は、戦前だった1918年生まれです。東京帝国大学卒業後に内務省の官僚となり、戦争中は海軍主計将校として赴任。終戦後に内務省に戻ると、退官後は衆議院議員となりました。

1959年に初入閣を果たした中曽根康弘は、1966年に自らの派閥、中曽根派を結成します。自由民主党の中では、その変わり身の早さから「風見鶏」と称されたこともありました。

1982年、田中角栄の助けを得て、内閣総理大臣に就任した中曽根康弘は、当時のアメリカ大統領レーガンと、「ロン」「ヤス」と呼び合う大物ぶりを披露し、日米安全保障体制の強化にも努めますが、1989年にリクルート事件に関与したことが問題となり、自民党を離党。それでも1991年自民党に復帰した中曽根康弘は、1997年、大勲位菊花大綬章を受章しています。2003年に政界から引退。中曽根康弘、85歳の時でした。

中曽根康弘が日航機墜落事故の真相を知っていると言われた事情

1985年に起きた、群馬県の御巣鷹山日本航空123便墜落事故の真相を中曽根康弘が知っているのでは、何らかの形で関与していたのかもしれない、と噂になったことがあります。

これは、中曽根康弘が「真実は墓場まで持って行く」と、思わせぶりな発言したことが原因と言われてきましたが、この発言自体どの場面で何について触れていたのか、発言があったのかすらも、今となってはわかりません。

他の政治家が日航機墜落事故と全く無関係な話題で口にした発言では「墓場まで」というフレーズの記録はあるものの、中曽根康弘の発言としては根拠が見当たらず、他人の発言と混同された可能性もあるようです。

田中角栄のロッキード疑惑がまた蒸し返されないよう、政府筋がボーイング社の報告書の作成を急がせ圧力をかけたとする説が、やがて都市伝説化したのではないかとも言われています。

大きな事件があると、何かその裏に表には出てこない事情があるのではと勘繰りたくなる人々の憶測や想像が様々な説を生んだ、ということだったようです。多くの人が命を落とした日航機墜落事故は年月を経た今もなお、人々の関心を集めています。

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中曽根康の経歴!政界引退の理由は何?

中曽根康弘は民営化を促進!

中曽根康弘の内閣総理大臣在任期間は、1982年から1987年の5年間。当時は、田中角栄がロッキード事件により自民党を離党しながらも、無所属で衆議院議員に当選し、自民党を実質率いていた頃です。結局、田中角栄の支持を勝ち取った中曽根康弘が、福田赳夫や大平正芳を抑えて、自民党党首となり、内閣総理大臣となりました。

中曽根康弘は、国会での施政方針演説で、従来の基本的な制度や仕組みをタブーなく見直す「戦後政治の総決算」を行うと宣言。外交においては、「日米両国は運命共同体」として、日米間のさらなる軍事協力強化を進めた中曽根康弘。内政においては、新自由主義的な経済政策で、日本専売公社、日本国有鉄道、日本電信電話公社の3公社を、それぞれJT、JR、NTTとして民営化しました。さらに、半官半民であった日本航空の民営化も推進しています。

中曽根康弘は小泉改革によって政界を引退?

中曽根康弘率いた内閣はバブル期に向けて一見華やかに見え、1986年の衆参同日選挙で大勝したものの、消費税の導入をほのめかした自らの言葉で支持率が一気に低下。結局、中曽根康弘は後継首相に竹下登を指名して、1987年に首相の座を降りました。

1989年になると、影の実力者をもくろんでいた中曽根康弘でしたが、リクルート事件への関与が明るみに出て、自民党を離党します。1991年、復党を果たした中曽根康弘でしたが、2003年に当時の首相・小泉純一郎から定年制導入のために引退を要請されると、ついに政界を引退してその政治家生命を終えました。

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中曽根康弘が歴代総理大臣2番目の長寿をまっとうして死去!晩年も政治を注視 

中曽根康弘は歴代総理大臣2番目の長寿をまっとうして死去

中曽根康弘は2019年11月29日に、101歳で老衰で死去しました。歴代総理大臣としては、102歳で亡くなった東久邇宮稔彦王に次いで2番目の長寿となります。

死去に際し、長男の中曽根弘文元外務大臣はコメントの中で「自分の時間を有効に使い、健康にも自分で気をつけて、101歳まで元気でいられたのだと思う」と語りました。健康に注意し、常に努力を怠らなかったからこその長生きだったようです。

中曽根元総理大臣の孫である中曽根康隆は「われわれも驚くくらい生命力が強いというのは感じていた。ずっと『国家が体に宿っている』と本人は言っていたが、最後の最後まで日本の未来のことを考えていた」と報道陣に向かって述べていました。

中曽根康弘の長寿の秘訣は、常に努力を怠らず国のことを考えるといった姿勢にあったのかもしれません。2019年当時の首相・安倍晋三も「国際社会の一員として、世界の平和、経済秩序の維持に重要な役割を果たし、わが国の国際的地位を大きく向上させた」とコメントしていました。

中曽根康弘は初当選で「総理大臣になったら」を考えていた!晩年も政治を注視 

中曽根康弘は過去にジャーナリストの須田慎一郎からインタビューをされた際、その意志の強さをうかがわせるエピソードを語っていました。中曽根康弘は1947年に中選挙区制により群馬で初当選をしたのですが、看板も地盤もない中曽根康弘にとって、当選は決して簡単ではなかったようです。

それにも関わらず、初当選の時点ですでに「将来総理になったら何をやるか」をノートに書き留めていたそうです。「その当時から総理になることを目指して、自分は政治家をやってきた」と語った中曽根康弘は、総理大臣になる自分と政策を思い描き、その理想を具体化するために日々努力をして歩んできたことがわかります。中曽根康弘とは内閣総理大臣になるべくしてなった人間だった、といえるでしょう。

孫の中曽根康隆によると、晩年は入退院を繰り返していたものの、入院中はベッドの上で新聞を3、4時間かけて読みながら線を引き、テレビで国会中継を見ていたそうです。死の間際まで国政について考えている祖父の姿を見ていた中曽根康隆に、中曽根康弘の意思は継がれていくのかもしれません。

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