新沼謙治の結婚馴れ初め!最愛の妻の死にまつわるエピソードが泣ける!

新沼謙治の結婚馴れ初め!最愛の妻の死にまつわるエピソードが泣ける!

新沼謙治が結婚した妻・湯木博恵は元バドミントン世界女王!2人の意外な出逢いとは?

新沼謙治は、1970~80年代にかけてアイドル的人気を博した東北出身の演歌歌手です。そんな新沼謙治が結婚したのは1986年のことでした。新沼謙治より7歳上の妻・湯木博恵は、元バドミントン選手であり、70年代の日本では敵なしの”女王”と呼ばれた人物。

全英オープン選手権・女子シングルで2年連続の計4回、ダブルス1回の優勝を飾り、1972年のミュンヘンオリンピックでは銅メダルを獲得しています。演歌歌手とバドミントン世界女王とは、珍しい組み合わせのようですが、新沼謙治には、バドミントンという意外な趣味がありました。

新沼謙治の地元・岩手県大船渡市に、現役を引退したばかりの湯木博恵が訪れ、バドミントンの指導を受けたことをきっかけに、2人の交際はスタート。約5年を経て結婚し、1男1女の2人の子供にも恵まれています。

新沼謙治の妻・湯木博恵が癌で他界!最期まで年下夫を支えた姉さん女房の遺書が泣ける

新沼謙治との結婚後、妻・湯木博恵は、母校・日本女子体育大学バドミントン部の監督を務める傍ら、姉さん女房として内助の功に務めました。しかし、全力で尽くしてくれた最愛の妻は、2011年9月7日にがんで他界してしまいます。新沼謙治の妻の死因は、甲状腺がんと伝えられましたが、2004年に発症していた乳がんの再発だったとも伝えられています。

その間、夫婦でゴルフを楽しむなど、元気な姿も見かけられましたが、2010年11月にがんの転移が発覚し、次第に病状は悪化。妻の危篤の報せを聞いた時、新沼謙治は、昼夜2部コンサートのために山形に滞在中だったため、開演前に長女の携帯電話を通じて「ありがとう」「頑張って!」と何度も声かけをしたそうです。

新沼謙治が妻の訃報を聞いたのは、昼公演が終わった休憩時間のことでした。妻の最期を看取ることができなかった新沼謙治は、涙でくしゃくしゃになりながら夜公演に臨んだといいます。妻は生前に、気丈にも葬儀場や装束を自ら指定する遺書を残しており、悲しみに暮れる夫の姿を想像していたのか、「自立してください」とのメッセージも記していました。それに対し、葬儀の場で「自立します」と応えた新沼謙治の姿は非常に印象的でした。

新沼謙治のプロフィール!「スター誕生」が生んだ元祖演歌王子!?

新沼謙治は中卒で左官職人へ!「スター誕生」挑戦のきっかけは?

新沼謙治は、1956年2月27日、岩手県大船渡市に生まれました。大船渡市立第一中学校を卒業後、高校に進学せずに、地元の合板工場に就職した新沼謙治は、東京に出稼ぎに行った友達の影響で上京するも、そこでの仕事も長く続きませんでした。その後、栃木県宇都宮市の左官会社に入社して、3年間の社会人生活を送っています。

歌手を目指すようになったのは、町内会ののど自慢で優勝した新沼謙治に、左官仲間が、伝説のオーディション番組「スター誕生」への応募をすすめたことがきっかけでした。「テレビに出てみたい」という軽い気持ちで挑んだ新沼謙治でしたが、4度の落選にもめげず、五木ひろしの「哀恋記」を歌った5度目のチャレンジで見事に合格。男性挑戦者では、番組史上最多となる17社のプロダクションが、新沼謙治の獲得オファーに名乗りを上げました。

新沼謙治「スター誕生」で阿久悠が見出したアイドル性!元祖演歌王子は氷川きよしではなかった

新沼謙治は、温かい雰囲気を持ちながら、どこか影があり、当時の芸能界では珍しかった東北なまりにも何か哀愁に似たものがありました。それがにじみ出た歌声には、名作詞家・阿久悠が「あれほどに気持ちよく悲しく歌える歌手はいない」と称賛を送っています。「スター誕生」の翌年、阿久悠作詞の「おもいで岬」でデビューを果たした新沼謙治は、同年の2枚目のシングル「嫁に来ないか」が早くも大ヒット。

その年のレコード大賞新人賞を受賞し、紅白歌合戦への出場を果たすと、「ヘッドライト」「黒潮列車」「津軽恋女」と、立て続けにヒットを飛ばします。演歌歌手でありながら、その人気たるや、「謙ちゃ~ん!」と黄色い声援が飛び交うほど。ブロマイドも飛ぶように売れ、出演番組の台本には”東北なまりで”と指示が入るなど、アイドルさながらのキャラ売りがなされていたといいます。

ピンクレディーなど、多くのアイドルを世に送り出した阿久悠は、新沼謙治にもアイドル性を見出していたのかもしれません。後世では、氷川きよしがアイドル的人気を誇る演歌歌手「演歌王子」の元祖とされていますが、本当の元祖は、間違いなく新沼謙治です。

新沼謙治は震災と妻の死を乗り越え……「ふるさとは今もかわらず」が感動を呼ぶワケ!

新沼謙治は、1976年の「嫁に来ないか」のヒットから1990年まで、13年連続で紅白歌合戦に出場しましたが、近年は目立った活躍は見られませんでした。そんな中、2012年11月にリリースしたシングルの2曲目に収録された、演歌ではない楽曲「ふるさとは今もかわらず」で、再び注目を集めることとなります。新沼謙治の故郷・岩手県大船渡市は、2011年3月11日の東日本大震災で、津波による甚大な被害を受けました。

「ふるさとは今もかわらず」は、震災発生の翌月に帰郷し、子供の頃に遊んでいた河原を散歩していた際に想起し、新沼謙治自らが作詞作曲を行ったもの。「NHK歌謡コンサート」やコンサートで、中学生の合唱をバックに披露され、涙なしでは聴くことのできない震災復興ソングとして、多くの感動を呼んでいます。復興ソングといっても、「透き通る風は身体にすり抜け……」と美しい故郷の情景を、ありありと描いた歌詞には、被災者を激励するような直接的な表現は見られません。

入院中の妻・湯木博恵の元へ向かう途中に被災した新沼謙治は、震災で親類を亡くし、それから半年後に妻をも失うこととなりました。全ての悲しみを乗り越え、亡き妻に自立を誓った新沼謙治は、長男と2人で暮らす中で、今では家事全般をこなしているといいます。ただ素直に、感じたままに綴られた「ふるさとは今もかわらず」は、新沼謙治の柔かな人柄そのもの。また、かつて阿久悠が評したように、新沼謙治の歌声には、やはり、気持ちよく悲しく聞こえる不思議な力がありました。

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