小笠原道大がプロになるまでと嫁との馴れ初めは?
小笠原道大の高校時代は本塁打0本と非力だった?プロ入りまで「一番嫌いな」キャッチャーでプレー!
豪快なフルスイングと寡黙なイメージで人気だった、元プロ野球選手の小笠原道大(おがさわらみちひろ)。あのイチローや中村紀洋と同学年で、キャラこそそれぞれ異なりますが、己の意志を貫く芯の強さはどこか通じるものがあります。
1973年10月25日生まれで、千葉県千葉市美浜区出身。身長178cm、体重84kgで、右投げ左打ちの小笠原道大の愛称は「ガッツ」でした。暁星国際高校在学時は「どこからもスカウトがかからない」ほど全く無名の選手で、高校通算本塁打は0本という、今から見ると信じられない非力ぶり。
チーム事情からポジションをキャッチャーに転向しましたが、本人は、「キャッチャーは一番嫌いなポジション」だったと漏らしています。高校卒業後は、社会人NTT関東に入社。「選手としてダメでもブルペン捕手で残れる」という理由で、引き続いてキャッチャーとしてプレーしています。1996年の都市対抗野球では、新日鐵君津の補強選手となり、チームのベスト8入りに貢献しました。
その年のドラフト会議で日本ハムファイターズの3位指名を受けてプロ入り。入団会見では「首位打者を取れるようなバッターになりたい」と宣言しますが、その思いを後に実現させることになります。プロ3年目の1999年からはレギュラーに定着し、長打力とアベレージを併せ持つ選手として開花していきました。
小笠原道大は嫁に小遣いももらえない恐妻家!実は「内助の功」と定評のある賢夫人だった!
小笠原道大のプロ野球人生を語る上で、欠かすことのできない存在がいます。それは、プロ入り前に入籍した、4歳年上の嫁・美代子夫人です。本当に必要な時以外は小遣いももらえず、給料もすべて嫁に持って行かれているという恐妻家の小笠原道大。チームメイトから焼き肉などをおごってもらうという、信じられない日々だったそうです。
それだけを聞くと、「本当に怖い嫁」というイメージがありますが、実は絶大な「内助の功」で定評のある賢夫人です。日本ハムから巨人にFA移籍した2006年オフ、彼女がフロント幹部宛てにしたためた直筆の手紙は、今でも語り草になっています。その内容は、便せん3枚で、「小笠原は多くのファイターズファンの応援と涙を十字架に背負いながら、巨人に飛び込んでいく決心をしました。
受け入れてくださるお気持ちに感謝いたします」というものでした。この手紙を読んで、心を打たれない人はいないであろう名文と言えます。また、彼が打席に立つたびに、「私の寿命を3日差し上げますから、どうかヒットを打たせてください」と祈り、密着取材時に、直筆のお礼状を添えた高級ワインを届ける等、細やかな気遣いを欠かさないとか。これだけできた嫁の存在があったからこそ、ストイックに野球へのめり込めたのでしょう。
小笠原道大の栄光の日ハム・巨人時代の成績と年俸!中日で引退後の現在は?
小笠原道大の日ハム・巨人時代の成績と年俸は?栄光の両リーグMVPも実現して最高年俸4億3000万円!
小笠原道大は、豪快なフルスイングがトレードマークのプロ野球界きっての強打者にして、高額年俸プレーヤーでした。プロ通算成績は、実働19年で、6828打数2120安打378本塁打1169打点、打率3割1分と終身打率3割をキープ。首位打者タイトルも2度獲得しています。ホームランも、10シーズンで30本台を記録し、ホームラン王タイトルを1度獲得するなど、長打とアベレージを兼ね備えたヒッターとして人気でした。
日本ハム時代は、足の速さを買われて2番に定着して、「バントをしない2番打者」としてブレイク。西武ライオンズで鮮烈なデビューを飾った松坂大輔のプロ初登板初先発試合で、プロの洗礼となるホームランを浴びせたのも小笠原道大です。日本ハムでデビューした1997年、年俸1200万円からスタートした小笠原道大は、2連連続リーグ最多安打、打撃タイトル獲得、MVP選出など順調に成績を伸ばし、28歳で、栄光の1億円プレーヤーに仲間入り。巨人入りしても、4年連続打率3割30本塁打90打点前後の成績で、両リーグMVPを実現し、最高年俸4億3000万円を得ています。
巨人は出来高や好プレーへのボーナスもあるので、実際は、推定年俸よりさらに高額だったことでしょう。しかし、巨人終盤には成績が低下傾向となり、2014年に中日に移籍した際には、前年の4億3000万円から7000万円へと減俸。およそ3億6000万円の減俸は、史上最高規模のダウンと話題になりました。
小笠原道大の中日入団から現在までの歩み!現役引退後は2軍監督に!
2013年シーズン終了後の11月10日に、「新しいところで挑戦」とFA宣言した小笠原道大は、構想外と考えていた巨人と話し合いを重ね、中日への移籍が表明されました。巨人時代に剃っていたトレードマークのヒゲ髭も再び生やして心機一転。2014年は、代打の切り札として起用される場面が多かったものの、時には先発出場し、交流時は指名打者で出場する試合も見られました。100打席にも達しなくとも、並外れた集中力で打率3割をマークする活躍を見せ、翌2015年も代打で活躍。
しかし、当たりが止まって、出場選手登録を抹消されるようになります。来季以降の去就が取りざたされる中、1軍復帰してタイムリーヒットで健在ぶりをアピールしますが、地元紙で谷繁元信監督兼選手とともにシーズン限りでの現役引退が報道されると、記者会見で正式に引退を表明。
古巣の巨人戦で引退試合が組まれ、両チームそろっての引退の花道から送り出されました。その後、間を置かずして中日2軍監督に就任します。現在も2軍監督として選手育成に励んでいる小笠原道大は、引退後に生活スタイルが180度転換し、ナイターがないため、規則正しい生活になったと漏らしました。
小笠原道大がフレッシュオールスターで熱血アドバイス!恩師の訃報に「ただただ残念」と胸詰まらせた!
2017年7月13日に静岡草薙球場で行われた「フレッシュオールスター2017」で、ウエスタン選抜チームコーチとして出場した小笠原道大。結果は、開催53度目にして、初めて0-0のドローゲームとなりました。ピッチャーは、主に1イニングずつ交代したにもかかわらず、2時間10分という短時間で終了。いかにテンポが良かったかがうかがえます。
小笠原道大は、ウエスタン選抜チームの練習終盤で、阪神・掛布雅之2軍監督と共に打撃指導に励んでいました。指導対象は、両者ともオリックスの若手選手で、引き揚げ寸前まで、身振り手振りの熱血アドバイスが続いたと言います。若手選手たちは「メッチャやばい!」と満面の笑み。限られた時間の中ではありましたが、往年の強打者に指導を受けられたとあって、非常に得がたい経験となったようです。
そんな充実したひとときを過ごした小笠原道大ですが、かつての恩師・上田利治の訃報に胸を詰まらせる一幕もありました。阪急ブレーブス黄金時代を築いた名将・上田利治は、1975年から3年連続阪急日本一の偉業を達成。1995年から5年間日本ハムの指揮を執ったのが監督生活の最後となりました。
野球に対する飽くなき情熱は誰にも負けず、打ち立てた通算1322勝は歴代7位の大記録となった上田利治。プロ入りして3年間、その上田利治監督と接した小笠原道大は、1999年に「バントをしない2番打者」として売り出され、飛躍のきっかけをつかみました。「今あるのは上田さんのおかげ。これまで、ずっと見守っていてくれていたので、ただただ残念」というコメントには、恩師を失った無念さがあふれんばかりです。
今、小笠原道大には、中日の次期監督候補の噂が立っていますが、さもありなんというところ。現・森繁和中日監督はつなぎというイメージが強すぎることを考えると、来シーズンにはいきなり1軍監督などということもあり得そうです。現役時代は人気の高い強打者だっただけに、そういった噂が立つのも致し方ないでしょうが、実際のところは、小笠原道大には、1軍での監督教育を受ける必要があると思われます。小笠原道大自身のためには、もう少し長いスパンで監督修業して欲しいところです。