2016年4月2日 更新
田中角栄の伝説・名言ぶっ飛び過ぎエピソード集!
田中角栄伝説!金と愛情のかけ方が桁外れ!
田中角栄、「日本列島改造論」を掲げ、戦後日本に大きく変貌させた伝説の政治家です。彼の豪快な名言・伝説は、死後20年経った今も、政治家だけではなく民衆に浸透しています。特に金に対する大胆さは有名で、時には信頼関係を獲得するために、期待額を遥かに超える金を渡すこともしばしばあった様です。
田中派の若手議員が美人局に引っ掛かってしまい、田中角栄に100万円の清算金を無心してきた時には、電話を受けるや否や話半分に承諾。ものの30分で若手議員の下に届いた封筒には300万円が封入されており、「100万円でけりをつけろ」「次の100万円で不始末のせいで苦労した周囲の人間にうまいものを食わせてやれ」「次の100万は万が一の場合のために持っておけ」「全額、返済は無用」というメモ書きが同封されていたそうです。
金については「借りた金は忘れるな。貸した金は忘れろ」という持論をもつ田中角栄。加えて「人間は失敗する。政治家を志す人間は、その人をそのまま愛さなきゃダメなんだ」という寛大な人間愛の持ち主でもあったのです。
田中角栄は約束を100%有言実行の男!人を惹きつける魅力がわかる!
田中角栄が内閣総理大臣を務めていた当時、休日の東京・目白の自宅には朝から各界の客が田中に陳情しようと行列したといいます。「年寄も孫も一緒に楽しく暮らせる世の中を作る」という政治目標を掲げ、「大衆軽視」への排除姿勢を見せる田中角栄に提言しようと並んだ人々は、実に要人から庶民まで多層に渡りました。
そんな彼ら1人1人に対面し、「よし分かった」「出来る」「出来ない」と応答し、了承した案件に関しては100%実行したそうです。田中角栄は「約束したら必ず果たせ。できない約束や蛇の生殺しはするな」と竹を割った様な性格である事も知られており、例え相手が外国人であっても曖昧な返答をしませんでした。非常にせっかちな性格も手伝っての事だったのでしょう。
しかし、是が非でも単刀直入だったわけではありません。敵対する相手に批判を述べる時には、相手が対立関係にあっても悪口は一切言わず、先ず長所を褒めてから批判意見をきっちり述べるのです。総合すると田中角栄の魅力は”叩き上げ”の豪気と、天性の人たらし術にあったと言えそうです。
田中角栄になれなかった小沢一郎…娘・田中真紀子の現在は?
田中角栄になれなかった小沢一郎…政治の天才を壊し屋にした選択ミスとは?
小沢一郎(現・生活の党共同代表)は27歳の時に、衆議院議員選挙で岩手県から自民党公認出馬・初当選を果たしました。その小沢一郎を「政治の天才」として寵愛したのは、当時の党幹事長であった田中角栄でした。戦後、バブル突入までの高度成長期に日本の礎を築いた田中角栄は、全盛期にあった自民党の絶対派閥田中派を牛耳る偉大な存在だったのです。
首相退陣後、ロッキード事件によって離党するも、尚も田中角栄色が濃く残る自民党。田中角栄の「時代に合ったやり方でないと日本はダメになる」という言葉を汲んだ小沢一郎は、「日本改造計画」を掲げて恩師・田中角栄よろしく日本に新時代をもたらそうとするのです。こうして自民党有力者に「乱世の小沢」と呼ばれる躍進を遂げ、最も総理大臣の椅子に近い男とされながらも、1991年の政治改革法案否決の混乱時には「49歳の自分には若すぎる」と総理就任に尻込みしてしまった小沢一郎。
その後は自民党を離党し、新党を結成しては解体を繰り返してきたことで、次第に「壊し屋」という異名の方が大きくなっていきました。ただ時の運がかみ合わなかった…小沢一郎が田中角栄になれなかったのは、そういうことなのかもしれません。
田中角栄の娘・田中真紀子は「真紀子節」で失脚!現在は引きこもり?
田中角栄の娘・田中真紀子は、1993年に自民党から衆議院議員に初当選してからというもの、いきなり翌年の村山内閣で科学技術庁長官に就任した期待の星でした。人々は奔放で歯に衣着せない「真紀子節」に故・田中角栄の影を重ね、初の女性総理大臣の青写真を描いたのもです。2001年に発足した第1次小泉内閣で外務大臣に就任した田中真紀子は、小泉内閣に異例の支持率をもたらしました。
実務では外交が機能不全に陥る程の騒動を度々起こし、事務方との対立によって2002年に更迭されても、依然人気は衰えなかったのです。しかし、その直後に秘書給与問題で議員辞職に追い込まれ、「自民党恨み節」を唱えながら2009年には民主党に鞍替え。第3次野田内閣では文部科学大臣に就任するも、既に審議会の認可を受けていた大学新規開校を直前に取り消し、前代未聞の大騒動を引き起こして「単なるワガママ」の汚名が決定づけられてしまいました。
その年の12月16日、奇しくも田中角栄の19年目の命日に行われた総選挙で落選。田中真紀子は、田中角栄が築いた新潟の地盤を完全に失ってしまいまして。現在は基本的に東京・目白に自宅に引きこもり、新聞投稿等行っているそうです。
田中角栄が戦後最大の宰相と呼ばれるビジョン政治と全体への愛
田中角栄が大蔵相の椅子に座った際、「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。できることはやる。できないことはやらない。しかし、全ての責任は田中角栄が負う。」と発しました。この時、旧帝大出身の財政金融エリート官僚たちでさえも「この人について行きたい」と衝撃を覚えたと言います。
官僚たちの出身地・出身校・誕生日などを全て記憶し、「歩く六法全書」と呼ばれる程に法律に精通していた田中角栄。彼が生まれ育った新潟県は日本海側の豪雪地帯で、当時は太平洋側との経済格差は歴然でした。しかし、貧しい農家に生まれたことで充分な教育を受けられずとも、彼には持前の頭脳とハングリー精神という財産がありました。もし、田中角栄が東京帝大卒のエリートなら、道路・新幹線・空港の建設を実現した「日本列島改造論」によって彼の言う「裏日本」に均衡ある発展がもたらされることはなかったでしょう。
それが後の日本にバブルと金権政治という影を生み出す元凶であったのは間違いありませんが、それでも田中角栄は戦後最大の宰相と呼ばれ、保守的立場から平和主義を目指した政治手法の部分は再び注目を集めつつあるのです。田中角栄の政治には利己的な利権だけではなく、確かにビジョンがありました。また、それを引きたてるマスコミ扇動力や、自己プロデュース力にも長けていたのです。
そして何より、その胸に「全体への愛」があったことが人々を動かしたのでしょう。田中角栄の言う通り、いつまでも田中角栄のやり方ではなく、時代に合った進化を遂げなければ日本が正しい方向へ発展することはありません。ただし彼が全うした「愛あるビジョン」は、日本人が踏襲すべき恒久の財産なのではないでしょうか。