吉田照美アナのラジオ番組「飛べ!サルバドール」が終了!文化放送退社の理由は?

吉田照美アナのラジオ番組「飛べ!サルバドール」終了のワケ!反日左翼って本当?

吉田照美アナだけではない、ラジオやテレビのパーソナリティが抱える深い闇

吉田照美アナは、1951生まれの66歳。1974年に文化放送に入社した後、1985年にフリーアナウンサーになり、テレビ、ラジオで活躍してきました。しかし2016年末、吉田照美アナが長年パーソナリティを務める文化放送の「吉田照美 飛べ!サルバドール」が、2017年の春をもって終了することが決まりました。

吉田照美アナは、同局で1980年10月にスタートした「てるてるワイド」を皮切りに、同局の冠帯番組を途切れることなく担当してきたベテランパーソナリティ。社員時代から36年半務めた、局の顔としての役目をとうとう終えることになりました。

吉田照美アナが訴える、しゃべりを生業とする者本来の役目

最近では、テレビやラジオのパーソナリティやコメンテーターが、少しでも現体制に対して批判めいた意見を口にすると、ネトウヨと呼ばれる匿名の人々が敏感に反応することも少なくありません。パーソナリティらをパヨク(左翼)や反日とレッテル化し、激しいパッシングが起こることが多々あります。

吉田照美アナが「飛べ!サルバドール」降板となったのも、彼の歯に衣着せぬ現政権に対する批判が原因とも噂されています。本来、テレビやラジオのパーソナリティは、相手が右翼であろうが左翼であろうが、既存権力の傲慢増長、さらには暴走を食い止める批判を担っていました。

その発言や記事に関しては、局や新聞社が全責任を負い、そのパーソナリティを守らなければいけない立場にあります。吉田照美アナ本人は、今回の番組終了に関しては、若手の育成やコストパフォーマンスを考え総合的に判断したという局の言い分を受け入れた上で、意外に醒めた目で見ている様子。

自分は決して左寄りではなく、むしろしゃべりをなりわいとする者として、批判や批評するのは当たり前であるという、極めてニュートラルな立場を明確にしています。

吉田照美アナが文化放送を退職したワケ!天本英世とのトラブルとは?

吉田照美アナ、人気パーソナリティからフリーへの転身

吉田照美アナは、1980年に、入社5年目で、「吉田照美の夜はこれから てるてるワイド」のパーソナリティとなりました。アイドル全盛時代、時のアイドルが次々と出演したこの番組は、若者たちの間で絶大な人気を得ます。数年パーソナリティを務めた吉田照美は、番組の褒美として出かけた欧州旅行をけじめに、フリーになることを決めました。34歳の時でした。

吉田照美アナが激怒させたトークの相手は、なんとあの死神博士?!

パーソナリティもまた、所詮はその場限りの他人事、面白ければいいという側面も持っています。吉田照美アナはかつて、俳優の天本英世をゲストに迎え、自らの知識の浅さを恥じ入ることがありました。天本英世は、平成教育委員会の優等生として、また仮面ライダーの死神博士や、東宝の怪獣映画に欠かせない役者として、知る人ぞ知るカルトな老優でした。

旧制高校時代には学徒出陣を体験し、戦時下の天皇制や軍隊組織を徹底的に忌み嫌い、戦後は、東京大学法学部政治科に入学して新しい日本を築こうとするも挫折。その後は演劇の道に入り、国家や組織の束縛を嫌う自由人、アナキストとしてその生涯を貫いた怪優です。

その天本英世に対して、吉田照美アナが、アナキストのことを、国家の反逆者であり暴力集団であるかのように言ったものですから、さあ大変。普段は温厚な好々爺の天本英世が、死神博士が乗り移ったかの如く激高しました。アナキストの定義から始まり、当時の政権、さらには堕落した戦後の日本についてをまくし立てたそうです。

ここで吉田照美アナが凄かったのは、天本英世の話を決してさえぎることなく、自分の非を詫びて、彼の話を聞き続けたこと。広くリスナーに、本当の自由とは、国家とは、人間とはという深い命題を考え抜いて生きてきた天本英世の心の叫びを聞かせ続けました。その後、東日本大震災を体験した吉田照美アナは、既成の通り一遍の情報ではなく、今、現場で起っている本当のことを伝え続けることを、パーソナリティとしての使命として肝に銘じたそうです。

吉田照美アナが対人恐怖症を克服したコミュニケーションの極意とは

吉田照美アナほどのパーソナリティならば、若い頃から人とのコミュニケ―ションはお手の物だったかというと、全くそうではありませんでした。中学に入った頃は、ひょうきんな性格でクラスの人気者だったそうです。しかし、初めて好きになった女の子が、勉強も運動もできる子でした。

自我に目覚めた彼は、勉強も運動もできない自分に対し、ひどいコンプレックスを持つようになってしまい、暗い中高生時代を過ごします。浪人をして、やっと早稲田大学に入った吉田照美がアナウンス研究会に入ったのは、対人恐怖症の自分が、最低限人並みに話せるようになりたいという一心だったとか。それでも1、2年生が参加する夏合宿では、3分間の自己紹介で、たった1人、絶句したまま何も話せなかったそうです。

大学4年間を通して、コミュケ―ション障害をなんとか克服した吉田照美アナは、晴れて文化放送に入社します。しかし、原稿は読めても、人とのコミュニケーションはやはり苦手なまま。そんな吉田照美アナがトライアンドエラーを繰り返しながら会得したのは、無理にコミュニケーションをとる必要はないという、自らのコンプレックスからの解放でした。

また、あらかじめ相手のことを調べて質問攻めにするのではなく、あくまで相手の話の言葉尻や、さりげないしぐさから、話の鳥羽口を見つけ、新しい話題を見つけて話すことも心がけているそうです。話術もまた、1つの技術。吉田照美アナは今後も、話術の職人として、ラジオを中心に活動し続けることでしょう。

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